そんなある日の出来事
ガタンゴトン。
揺れる満員電車の中で僕は今日も一日仕事が終わったという疲労感に浸っていた。明日は土曜日。休みだ。電車の中では疲れきった初老の男性がこくりこくりと船をこいでいたり、若いOLの女性が熱心に携帯電話をいじっていたりしていた。
今日も平凡に一日が終わるはずだった。
あの出来事がなければ。
後十分もしないうちに最寄り駅に着こうかという時だった。
ふと気がつくと僕の目の前に長い髪のきれいな女性が立っていた。きっと先ほど駅で乗り込んできたのだろう。後ろ姿なので顔は見えないが、オシャレな服装から恐らく美人だろう。
そんなことを考えながら彼女の後ろ姿を眺めていると、突然彼女は僕のほうを振り向きキッときつい視線を投げかけてきた。
なんだろう。足でも踏んだのだろうか?
足元を見たが踏んでなんかいない。代わりに僕のではない手が彼女のお尻に当てられていた。
ち、痴漢!?
僕はあわてて後ろを振り向いた。僕のちょうど後ろの男が彼女のお尻に手を伸ばしているではないか。
ふざけるなよ、この野郎!痴漢の罪を僕に押し付けるつもりか!
僕が我を忘れどなりかけたその時だった。
「ふざけんな、この痴漢野郎!」
僕より先に彼女がどなっていた。しかも僕にではない。僕の後ろの彼に向かってだ。気づいていたのだ。痴漢が僕ではないことに。
男はあわてて彼女から手を離した。ろうばいした顔が実に情けない。
「いい加減にしときなさいよ!アンタ一体いくつなった!」
と、どなりつけた彼女の声が妙に幼いことに気づいた。
え?
僕はよくよく彼女のことを観察する。背は成人女性と同じくらい高いが、顔は幼い。身に付けている衣服は高そうだが、体付きはやっぱりおさない。
ま、まさか、
「ったく!中学生相手に何考えてんの!少しは人の顔見てからやんなさいよ!」
彼女は幼い顔を真っ赤にして怒っていた。
電車内の注目が二人に集まる。
「アンタも!彼氏ならちゃんと私のこと守ってよ!!」
彼女は僕に向かってそんなことを言った。
はっ?何を言ってるんだ?この娘は?
乗客の注目が一気に僕に注がれる。
背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「溝の口、溝の口ぃー」
丁度よいところで車内アナウンスが流れる。
電車が駅についた。
内心ホッと息をつく。本来僕はこういう注目を注がれる行為が苦手なのだ。
ドアが開くと同時に僕は彼女の手を取って、プラットホームへと逃げ出した。
「きゃ、ちょ、ちょっと・・・!」
彼女は不満そうな声を上げたが、気にしない。
階段を一段飛ばしで降りて、階下のホールについたところでやっと一息つく。
「はあ、はあ、はあ・・・」
さすがに大人の足に合わせるのは、中学生の女の子にはきつかったようだ。彼女は息を荒くして膝をついている。
「大丈夫、だった?」
僕はおずおずと彼女の顔を覗き込む。
しかし、彼女は先ほどと同じようにキッと鋭い視線で僕を睨みつけてきた。
「大丈夫なわけないじゃない!」
あれ?そんなに走るのがきつかったのかな?
「痴漢男から慰謝料取りそこなったじゃない!」
ああ、そういうことね。
はは、と呆れ半分に笑うと、彼女はさらにきつい視線を僕に投げかけてきた。
「どうしてくれんのよ!これじゃ触られ損じゃない!」
・・・。
まあいい。むしろ怒りたいのは僕の方だ。
「それよりも、どうしてあんな嘘言ったんだい?」
大人が子供をあやすような口調で、僕は尋ねる。
怒りを極力抑えた態度。僕は会社に入って一年でやっとこの技術を身に付けた。
一人っ子でわがまま放題に育てられ、大学という甘ったれた空間で四年間を過ごした僕はこの技術を習得するに相当苦労した。
だが、彼女はその態度を打ち砕くかのような暴言を吐いてくれた。
「うっさいわよ!アンタに関係ないでしょ!?」
これだけ巻き込んでおいて、関係ないことはないと思うのだが・・・。
密かな怒りが僕の心の中で渦巻き始める。
まあ、いい。そういう態度にでるのなら、僕も好きにやらせてもらう。
「そうだね。関係ないね。じゃあ僕は帰るから」
僕はきびすを返して、再びプラットホームに向かおうとした。
背を向けたその瞬間、後ろから彼女の手が伸びてきた。手が、僕のわきの下を通って胸元に入り込む。
しまった!
と、そう思ったときにはもう遅かった。
彼女は勝ち誇った顔で僕の財布を握っていた。
「ふふーん。どうして背広を着てる人ってここに財布を入れたがるのかしらねー?」
そこが一番安全と思うからだ。
僕は心の中で回答しながら、彼女に詰め寄った。
「ほら、返して。大人をからかうもんじゃないよ」
ずいっと手を伸ばす。
「いやよ。慰謝料取りそこなった分、あなたに払ってもらうわ」
ひょいと僕の手をかわして、財布の中を物色し始めた。
もう我慢も限界だ。
「返せ!」
僕は彼女に向かって怒鳴りつけた。
だが、彼女は怯みもせずにひょうひょうと言い放つ。
「そうねえ、そうだ!私に追いつけたら返してあげる」
言うが早い、彼女は脱兎のごとく逃げ出した。
「ま、待て!!」
僕も慌ててその後を追う。
足は僕の方が確実に速いはずだ。それは先ほどの逃亡劇で証明済み。すぐに捕まえられる。そう高をくくっていた。
なのに・・・。
「はあ、はあ、はあ・・・」
一向に彼女を捕まえられない。
彼女はすいすいと人ごみの中をくぐり抜け、最短コースの逃げ道を走る。
それに比べて図体のでかい僕は人にぶつかるたび、謝りながら彼女を追いかけねばならなかった。
駅を出て、街中に出てもそれは同じことだった。
彼女を見失わないようにはしているが、ともあれば見失ってしまいそうなほど彼女はすばしっこかった。
はあはあと息を切らせながら、走る。
こんなに全力で走ったのは高校の部活以来だ。大学では怠けていて、何もしていなかったんだ。まったく、こんなことなら運動部にでも入っておけばよかった。
街を出て、住宅街に入っても彼女の逃走は続いた。
しかし、直線ならば僕の方が速い。
「こ、の!!」
僕は最後の力を振り絞ってスパートをかけた。
伸ばした手が彼女の襟首に届く。
「きゃ!」
やった!
そう思った瞬間、力が抜けた。足がもつれ、彼女を押し倒すような形で地面に倒れこんでしまった。
はあはあと荒い息をして、アスファルトの上に少女を押し倒すという状況は、なぜだか僕をひどく興奮させた。
「ご、ごめん」
はっと正気に返り、僕は追いかけていたことも忘れて思わず謝った。
彼女がクスリと笑う。
「何謝ってんの?」
「いや、なんとなく、痛かっただろうなと思って・・・」
本当は違う。彼女に対して欲情してしまった自分への罪悪感から謝ったのだ。
「変な人。でも、すごいね。私をここまで追いかけてきたのはあなたが始めてよ」
「へえ?今までの奴はあきらめて帰ってたのかい?」
「うん。お回りだってまいたことがあるんだから」
彼女は立ち上がってパンパンと衣服をはたいた。その表情はどこか誇らしげだ。
「ってことは今までにも犯罪まがいのことをしたことがあるってことか」
「うっ!」
彼女は気まずそうな顔をして僕から視線を反らした。
大人びていたはずの彼女の顔が急に子供っぽく見えたのが妙におかしくて、僕は笑いだしてしまった。
「何笑ってんのよー」
「あはは、ごめんごめん。何だかおかしくてさ。君のそのよく動く表情を見てたら、僕はなんでポーカーフェイスなんかしてるのかなって思えたんだ」
キョトンとする彼女。僕は構わず続ける。
「素直に感情を表せる君をうらやましく思えたんだよ」
「なんで素直に感情を表さないの?」
さも不思議そうな顔で聞き返す彼女。
「素直な感情は相手を不快な気持ちだってあるのさ。お互いが不快になることを言い合っていたら世の中うまく回らないだろ?」
「ふうん。大人の世界も大変ね」
子供だって大変なのだというような言い方をする。そりゃそうか大変じゃないことなんかこの世にはありゃしないもんな。
「君も大変なんだな」
「そうね。楽はさせてもらえないわね。財布一つ取るのにこれだもん」
彼女は心底疲れたようにそう言った。
僕はまた笑った。彼女も笑っていた。
「さて、僕はそろそろ帰るよ。財布、返してもらえないかな?」
「しょうがないわね。捕まっちゃったんだし」
シブシブと財布を差し出す。しかし、僕の手が財布に届いてもまだ彼女はそれを握っていた。
「そんなにそれが気に入った?それともまたおっかけっこしたりない?」
からかうような気持ちでそう言ったが、それは間違いだった。
彼女はひどく深刻そうな顔をしていた。
「そうじゃないわよ、ただ・・・」
「ん?そんなにお金が必要なのかい?」
今度は慎重に尋ねる。
「そうじゃない。このまま離したらあなたとはもう会えないじゃないでしょ?だから離したくない」
その悲しげな声に僕は沈黙させられた。僕はこの出来事をどこかで夢だと思っていた。だから彼女のこの発言にひどく驚いていた。
しばらく沈黙が続く。
何を迷う必要がある?彼女は僕に大切なことを思い出させてくれた大事な人じゃないか。年齢なんか関係ないだろ?少なくとも僕は・・・。
ふっと息をついた
背広のポケットからメモ帳とペンを取り出し、さらさらと書き込むと、それを破って彼女に渡した。
「?何、コレ?」
「僕の携帯の番号と住所だ。さみしかったらいつでもかけていい。会いたいなら土日はたいがい家にいるから遊びにおいで」
そう言うと、ぱあっと彼女の顔が輝いた。
「いいの?私、遠慮がないからいつでも遊びにいっちゃうよ?」
「駄目なら住所なんか教えないよ」
「そう、そっか!ありがと!私、いつでも電話するから!!」
少女は立ち上がって、子供らしい元気な笑顔を僕に見せてくれた。
「じゃあ、私も帰るね。バイバイ!」
少女は手を振って、僕の側から離れていった。
少女の姿が小さくなっていく。
僕は手を振りながら、自然な笑顔で見送っていた。そして、彼女は姿が見えなくなる寸前で僕に尋ねてきた。
「ねえー!まだお互いの名前言ってなかったよねー!私は、須崎明日香っていうのー!あなたはー!?」
僕はそれに大声で答えた。
「とおるだ!佐野徹!!よく覚えとけー!」
彼女は笑いながら去っていった。
僕たちの出会いはこんなインパクトのあるものだった。
お互いが誰か知らない。だからこそ、あんな風に感情を出し合えたのかもしれない、と僕は思っている。
僕に久しぶりに感情の出し方を思い出させてくれた女の子。
僕は、この日、十才も歳の離れた友達を持つことになった。
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