明徳寺城の解説
更新 2005-06-01 |
明徳寺城は南北朝時代、会津の葦名氏の来攻に備えて荘田城の沼田氏が築いた天神山砦を改築したものと考えられ、明徳年間(1390〜4)僧の松庵が城郭の下に明徳寺を開山したことから、現在の名称が一般的になっている。 戦国時代、沼田氏滅亡後の沼田は、上杉氏の時代を経て天正7年 (1579) 北条氏の領有するところとなった。この頃、東上州進出の機を窺っていた信州の真田昌幸は、吾妻の岩櫃城を拠点に名胡桃、小川の両城を攻略、利根川西岸を固めたため、沼田城代藤田能登守は明徳寺城を構築、沢浦隼人、渡辺左近、西山市之烝、師大助等を置き名胡桃、小川両城に対峙した。翌8年1月の夜半、昌幸は明徳寺城を急襲した。城代矢部豊後守は左近、大助等将兵200余騎ともども奮戦、死守すれどもついに破れ沼田に退去した。昌幸は弥津志摩守、出浦上総介等を明徳寺城に置き、さらに城を補強した。その後、天正17年 (1589) 豊臣秀吉の盟約により、北条氏は名胡桃城を除く利根、沼田の地を安堵された。しかし、北条側の沼田城代猪股憲直が名胡桃城を不法攻略したことをきっかけに、翌18年秀吉の小田原討伐が開始され、北条氏は滅亡、再び利根・沼田は真田氏の所領となり、明徳寺城は廃城となった。 明徳寺城址は、大字後閑字城山の南東の幅広い尾根上に立地した土囲式丘城格の断崖城で、規模は400×300m、現在、城郭内は畑地となっているが3段ほどの郭に区画され、周囲には高さ2m以上の二重の高土居がめぐり、その間の壕、虎口、櫓台、井戸、高土居外に付加された馬出郭、さらに南東の字外城山の尾根を掘り切った遠構えなど、一部崩壊しているが多くの遺構が当時の原形をとどめている。
(月夜野町教育委員会)
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