小田原城古郭の保存問題
更新 2002-10-03

歴史的遺産の上に校舎を建設??

歴史的な価値

 観光客でにぎわう石垣のある近世小田原城は、徳川・稲葉氏が造ったものです。 そのときの関東の中心地は江戸でした。

 その裏手の(新幹線をはさんだ反対側にある)八幡山に、後北条氏の中世小田原城(古郭という)があります。 関東の覇者、後北条氏の初期の居城です。 戦国時代末期には、関東一円の中心となる政庁でもありました。 ここは、天正 18 年の小田原合戦で豊臣秀吉の軍勢に囲まれたとき、北条氏政の軍指令部になりました。

 新校舎建設工事に先立つ調査によって、古郭の内郭から“障子掘”が発掘されました。 障子掘は、箱根の山中城などにもあり、後北条氏の城の特徴の一つと言われています。 後北条氏の本城である小田原城の内郭の堀がやはり障子堀であったということは、注目に値する新成果といえます。

現在の状況

 この“藤原平”と呼ばれている曲輪(くるわ)は、2001 年まで県立小田原高校のグラウンドになっていました。 2002 年春から工事が始まり、小田原高校(正確には城内高校との仮称“新統合高校”)の校舎が建とうとしています。 (西曲輪にある校舎を隣の藤原平に移し、空いた西曲輪をグラウンドにする予定です。)

 後北条氏時代の小田原城古郭に新校舎が建ってしまいそうなのです。 これは、
徳川に破れた豊臣氏の大坂城の山里曲輪に府立石山高校(架空名)の校舎を建てたり、
官軍に破れた徳川氏の江戸城西の丸(皇居)に都立二重橋高校(架空名)の校舎を建てようとする
 のと同じ行為だと思います。

発掘の成果

 2002 年 9 月末ごろまでは、発掘調査中です。これまでに、次の遺構が見つかっています。

今後の予定

 県のプラン (別画面が開きます) (再下部の図で、左半分の緑わくが藤原平、右半分の青わくが一部主郭を含む西曲輪です。)

 神奈川県は、これらの遺構部分は再び埋めてしまい、 それ以外の部分に、校舎を建てるつもりです。 見られない遺構なんて、ないのと同じで、何の役にもたたないではありませんか。 一度校舎が建ってしまったら、少なくとも我々が生きている間には見られなくなるでしょう。
 また、全面発掘ではないので、まだ掘っていない箇所に重要な遺構がある可能性もあります。もしあっても、それは破壊または埋め殺しにされます。

 県としては、作ってしまった計画どおりになんとか高校を建て替えたいのでしょう。 しかし、それは“高校を城外に移設してほしい”という小田原市民の願い(下記“主旨”を参照)に逆行することになります。 現在、建て替えを望む神奈川県と、 遺構保存を要望する“八幡山に「北条早雲公園」を創る市民協議会”とは完全に対立しています。

あるべき姿

 校舎にするよりも、静岡県三島市の山中城のように曲輪面と障子掘を復元し、 公園として整備したほうが、市民・県民・国民の役に立つでしょう。 校舎はどこにでも建てられますが、中世 小田原城はここにしかありません!  しかも、本曲輪が宅地となっている以上、史跡にできるのは現在の小田原高校部分だけです。
 初めから、県知事や県教育委員会に中世 小田原城への造詣があったら、 こんなプランは立たなかったでしょう。教育は重要ですね。

私の希望

 高校は、別の場所に移転すべきです。 すでに、全国各地でいくつもの学校が城跡から立ち退いています。 城跡は、明治維新のころには都合のよい空き地でした。 その城内にとりあえず建てた学校を城外に移すのは、全国的な流れです。 城跡が、歴史的価値のある文化財として広く認められてきたからです。 現に、近世小田原城二の丸にあった城内小学校が三の丸に移転しています。
 幸い、小田原高校には、すぐそばに代替となりそうな土地があります。 移転すれば、小田高生も毎日山登りをしなくても済むようになります。 彼らが、自分の高校名を胸を張って言えるようにしてあげねばならないと思います。

署名運動

八幡山に「北条早雲公園」を創る市民協議会 支援サイト(別画面が開きます) では、ネット上でも署名とメッセージを集めています。
 紙上の署名は1万5千人を超えているそうですが、さらに多くの方のご協力が必要でしょう。 署名の主旨は、“八幡山全体を国指定史跡にする”などです。
 主旨 をよくご理解のうえ、賛同なさった方は 署名してあげてください (別画面が開きます)
(私は署名運動主体の一員ではありません。)

主郭の発掘現場へ
外郭の発掘現場へ


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NISHIMURA, Kankuro, Kazuo (nishimura@komazawa-u.ac.jp)