およそ明治 6 年の「存城」「廃城」から明治 10 年の西南戦争ごろまでにおける,「存城」の軍事的な位置づけ,営所のための改変,建築遺構や石垣・堀をどのように維持したかなどについて検討する.
09:20 | 受付開始 | ||
10:00 | 挨拶・趣旨説明 | ページ | |
10:15 | 「幕末維新期における政治・社会の変動と大阪城」 | 能川 泰治 (金沢大学) | 6 |
11:15 | 「陸軍省管轄期の和歌山城」 | 大山 僚介 (和歌山市和歌山城整備企画課) | 22 |
12:15 | 休憩 | ||
13:15 | 「明治期における城郭保存 ― 姫路城を中心に ―」 | 竹内 信 (同志社大学大学院) | 32 |
14:15 | 「明治維新からの岡山城本丸跡」 | 乗岡 実 (元岡山市教育委員会) | 48 |
15:15 | 休憩 | ||
15:30 | 「伊勢亀山城における明治廃城 ― 遺構からみた「廃城令」に対する明治人の意識について ―」 | 亀山 隆 (亀山市教育委員会) | 53 |
16:30 | 総括 | ||
17:10 | 閉会の挨拶 |
天守の開放 ― 庶民が天守に登るまで ― | 森山 英一 (城郭研究家) | 66 |
明治廃城に儀礼・作法・象徴的な破城は存在したか? | 高田 徹 (城郭談話会・城館史料学会・愛知中世城郭研究会) | 81 |
明治初期における城郭統制 ― 地図作成史からの整理 ― | 井口 琢人 (城郭談話会・神戸大学大学院) | 86 |
明治時代初期の弘前城 | 今野 沙貴子 (弘前市都市整備部公園緑地課) | 96 |
明治初年の盛岡城沿革と公園化への道程 ― 盛岡城所管者の変遷とアメリカ人青年の城内見物記を中心に ― | 神山 仁 (日本城郭史学会) | 102 |
廃城前後の白石城 | 日下 和寿 (白石市教育委員会) | 106 |
山形城 | 齋藤 仁 (山形市教育委員会) | 109 |
落城から明治中期における城郭の役割 ― 戊辰戦争で落城した二本松城の場合 ― | 佐藤 真由美 (二本松市役所都市計画課) | 113 |
土浦城 | 石川 功 (土浦市教育委員会) | 117 |
上田城跡に造られた陸軍施設、神社、遊園地、畑… ― 東京鎮台及び3人の「丸山平八郎」による城跡の保存・改変 ― | 和根崎 剛 (上田市教育委員会) | 123 |
廃城から明治中期の富山城 | 野垣 好史 (富山市埋蔵文化財センター) | 129 |
駿府城の明治時代の歴史 ― 廃城過程を探る ― | 松井 一明 (織豊期城郭研究会) | 135 |
三河吉田城と陸軍の利用 ― 幕末から存城処分、そして歩兵第十八聯隊の設置と経営まで ― | 岩原 剛 (豊橋市文化財センター) | 140 |
廃藩置県後の名古屋城 | 原 史彦 (金城学院大学非常勤講師) | 148 |
尼崎城の消滅過程の整理 | 遠藤 啓輔 (城郭談話会) | 154 |
膳所城における廃城時の様相 ― 発掘調査の成果を中心に ― | 山口 誠司 (城郭談話会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会) | 164 |
高槻城跡と高槻工兵隊 | 中西 裕樹 (城郭談話会・高槻市教育委員会) | 169 |
陸軍が改修した大坂城の現存建築 ― 修理報告書の成果から ― | 高田 徹 (城郭談話会・城館史料学会・愛知中世城郭研究会) | 171 |
近代の大阪城に関する考古学的知見 | 市川 創 (大阪府教育庁]・櫻田 小百合[大阪市教育委員会) | 177 |
明治維新後の山崎城 | 堀 寛之 (城郭談話会・宍粟市教育委員会) | 183 |
近現代における近世城郭跡の推移 ― 鳥取城跡の場合 ― | 佐々木 孝文 (鳥取市教育委員会) | 187 |
近代以降の今治城の変容について | 伊津見 孝明 (和歌山市和歌山城整備企画課) | 193 |
明治初期における伊予松山城 | 西村 直人 | 198 |
「軍郷・軍都」遺跡としての城郭遺構に対する認識を問う ― 福岡城三ノ丸 下之橋御門の復原建物を題材に ― | 木島 孝之 (城郭談話会・九州大学) | 202 |
中津城廃城について | 浦井 直幸 (中津市教育委員会) | 208 |
明治〜昭和時代の府内城跡 | 小野 綾夏 (大分市教育委員会文化財課) | 214 |
西南戦争以後の陸軍による熊本城の改変について ― 竹の丸を中心にして ― | 河本 愛輝 (城郭談話会) | 218 |
熊本城と熊本鎮台 | 鶴嶋 俊彦 (熊本城調査研究センター) | 224 |
明治維新と鹿児島城 ― 存城と廃城のはざまで ― | 太田 秀春 (鹿児島国際大学) | 229 |
編集後記 | 234 |
明治 6 年 (1873),太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」並びに「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」によって,兵部省管轄下にあった近世城郭は陸軍省管轄の「存城」,大蔵省管轄の「廃城」に振り分けられた.今日,この“廃城令”と呼ばれる達しにより,「廃城」扱いとされた城郭の多くは売却対象とされ解体・破壊が進められた.官有地・学校等となり,後に公園となったものもある.
一方,存城の多くはその後,陸軍の営所となった.陸軍は城郭跡を改変しつつも,近代軍隊の拠点として利用した.その過程で崩された石垣や埋められた堀もあったが,一方で補修され,二次的に利用された堀等も存在する.また天守・櫓等は,改変を受けながらも傷んだ箇所を補修し,継続使用された例もあった.陸軍による城郭管理は,一口で言えば功罪両面があったと考えられる.
本報告会では,およそ明治 6 年の「存城」「廃城」に関する達しから,国内最後の内乱とされる明治 10 年 (1877) に起こった西南戦争頃までの間,「存城」が軍事的にどのように位置づけられていたか,どのように改変を行って営所としたか,その過程で残された建築遺構や石垣・堀をどのように維持していたか(≒ 保存したか)等について主に文献史料面から検討する.
また考古学の立場から,「廃城」がどのように進められたのか,「存城」となった場合にはどのように改変されているのか,そこから何が読み取れるのか等を検討する.近代初頭の「存城」「廃城」から西南戦争前後の時期は,現代に残された,あるいは破壊された近世城郭にとってどのように位置づけられるものであるのか,解明を試みるものである.