------------------------------------------------------------ 正 誤 表 本会発行の『東国の中世城郭』128頁の下段本文について、欠落がありました。お詫びするとともに、下記のとおり訂正いたします。 ------------------------------------------------------------ であるならば、二重堀で完全に遮断してしまえばよいことである。にもかかわらず、この場所に複雑な虎口を形成したのは、東側の台地続きとの間に、土橋による安定した通路を求めたために他ならない。すなわち、敵の攻撃をfの狭いスペースに誘導して馬出と主郭塁上からの射撃で拘束し、馬出から部隊を出撃させて敵を破砕することが、この縄張の目的であろう。馬出や桝形虎口ではなくfこそが、この城におけるもっとも重要なキル・ゾーン(撃破ポイント)なのだろう。侵入してきた敵を受動的に迎撃する手段としてのみではなく、逆襲によって積極的に勝利を得るための工夫として、こうした縄張は理解するべきではなかろうか。  なお、主郭北側の台地上は学校建設で破壊されているが、『静岡県の中世城館跡』はここにも土塁と堀を伴う外郭2があったとしている。  八巻孝夫氏は小長井城について、武田氏が遠江に侵攻した元亀年間の築城としている。丸馬出や桝形虎口の技法から武田氏の築城とした八巻氏の推定は妥当であるけれども、縄張の時期については、再考の余地があるように思う。丸馬出の両側に小さな桝形状の施設を付加する技法は、新府城の大手口とそっくりであるし、城内を塁壁のみで(堀による遮断を用いずに)仕切りながら桝形虎口によって連結する点や、土塁を小さく折ってピンポイントの横矢掛りを形成する点なども、新府城と共通する。高天神城の失陥によって対徳川戦線が危殆に瀕していた、天正九〜十年(一五八一〜八二)頃の武田氏が、遠江と甲斐との連絡路にあたる当地に、かくも技巧を凝集した築城を行った可能性について、改めて考えてみる必要があるだろう。  西股総生