タブ山チャシ
たぶやま ちゃし

論文と縄張図
改訂: 2010-09-14

 掲載: 『東国の中世城郭中世城郭研究会, 2010-07-30, pp. 6-7.

ページ見本

dot 論考.doc (33KB) …… 下記文書と同一(ただし,縦書き,漢数字)


タブ山チャシ

西股 総生

(1) 所在地: 北海道標津郡標津町字茶志骨(地図
(2) 標高/比高 20m/17m
(3) 主要参考文献: 『日本城郭大系』1, 1980.
(4) 掲載した国土地理院発行 1/25,000 地形図の図名: 標津
(*) Wikipedia: チャシ

 茶志骨川の河口に近い独立丘の縁辺に占地しており,標津の海岸線とその彼方に横たわる国後島を一望する.このような占地ゆえ,チャシ跡には第二次大戦時に海岸防衛用の塹壕陣地が設けられており,その一部がチャシの遺構と重複している.
 道東地方の面崖式チャシは,単式ないしは眼鏡型の複郭式(典型例としてアオシマナイチャシ)を呈するのが普通であるが,タブ山チャシは 5 つの曲輪からなる多郭式である.多郭式のチャシとしては,根室半島のチャルコロフイナチャシ(チャルコロモイチャシ)やコンブウシムイチャシ(トーサンポロチャシ)などが知られているものの,根室半島以外でこうした形態は珍しく,貴重な事例といえる.

タブ山チャシの縄張り図 - 西股総生 2009

 5 つの曲輪のうち1〜4は連鎖しており,5のみがやや離れて単独で存在している.1・4・5は二重堀に囲まれており,二重堀の間は帯曲輪となる.南端の1は,堀幅が広く壁面もしっかりしていて,もっとも防禦が固い.中世城郭における主郭に相当する区画と,評価できるだろう.1は北・西・南の 3 面に土塁を伴っているが,南側の崖面近くで土塁が途切れており(a),ここに木橋を架けて対岸の帯曲輪と連絡していた可能性がある.北面の開口部は破壊道のようである.
 1・4の帯曲輪がそれぞれ2・3に接する箇所(b・c)は,堀を食い込ませて意図的に幅を狭め,1・4の土塁上からの効果的な狙撃ポイントとしている.横矢掛りの一種として理解できる構造である.5の出入りはeの箇所に木橋を架けていたようであるが,おそらく城外から木橋で一旦fへ入り,帯曲輪を回り込んでeへ至ったものと推測できる(そうでなければ帯曲輪がfで途切れている意味が理解できない).この場合,fは一種の馬出として評価できることになる.dの箇所も同様で,崖端の堀の途切れている所から帯曲輪へ入り,dを経由して4に至っていた可能性がある.先述した土橋と併せて考えるならば,チャシ全体のプランニングの中で,導入路や虎口を工夫しようとする意識が存在したことを看取できよう.
 また,堀の末端が竪堀となって斜面を下っている箇所も多い.土塁・虎口・竪堀・横矢掛りといった中世城郭の研究用語は,これまでチャシ研究ではほとんど用いられてこなかったが,当チャシには明らかにそれらの縄張上の工夫が看取できる.
 当チャシの築造主体や時期は不明である.とはいえ,当地が知床・根室両半島と,国後・歯舞・色丹の島々が形成する内海の中心にあたる要衝であることを考えるならば,根室半島の多郭式チャシと同様に,寛政元年(1788)に起きた国後・目梨の乱に関係するチャシ,と推測するのが妥当であろう.


Valid HTML 4.01! Valid CSS!
back ひとつ戻る
  中世城郭研究会 のページにいく
管理人 nishimura@komazawa-u.ac.jp