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[内容: バイヨン,タ・プローム,バンテアイ・クデイ,スラ・スラン,プレア・カン,ニャック・ポアン]
2015-08-22 西村和夫
クメール王朝の都城とバライ: クメール王朝(=アンコール王朝)(802〜1431 ごろ)は,都城として,まずヤショダラプラ(900 年ごろ)を造り,(一時期コー・ケーに遷都し,)次にアンコール・ワット(1113〜1145 年ごろ)を造り,最後にアンコール・トム(12 世紀末)を造った. アンコール地域では,地下 2m ほどのところに水を通さない粘土層があり,保水性がよい [石澤 1996]. 大人造湖である東バライは,900 年ごろにヤショバルマン1世が造った.アンコルワットより前のことである. 西バライは,その 150 年後の造営である.1050 年にウダヤデイティヤヴァルマン2世が登位して,バブーオン(城)を建造し,西バライを開削した(ページ (2) の考察で分かるとおり,このときにはヤショダラプラは存在しない). その後に,アンコールワットを造ったことになる. 王の在位期間と建造した寺院(一覧)
大手道と水路:
アンコール・ワットは,西大門から西の空港を通り,タイ(シャム)方面に至る道が大手道であったろう(大手を西方浄土に向けたのかもしれない).
その道を横断して,Veal を囲むように,巨大なL字形の水堀(東西 4km,南北 2km)があった.この堀の東端は,シェムリアップ川に至る.
一方,北端は,西メボン (West Mebon) のある巨大な(東西 8km,南北 2km の)長方形の人造湖である西バライ (Baray Tuek Thla) に接続する.
西からの賓客は,この湖の南西角から船で南東端に行き,L字形の堀に入って,アンコール・ワットに至ったと思われる .
また,この湖の北東角やや南からアンコール・トムの西大手門近くに至る水路の痕跡が残っている.
対照的に,東からの賓客は,東バライ (Yashodharatataka) (東西 7km,南北 1.8km)を船で渡って,寺院タ・ケオ (Ta Keo) を通り,寺院トマノン (Thommanon) とチャウ・サイ・テヴォーダ (Chau Say Tevoda) (これらはアンコール・ワットを造ったスーリヤヴァルマン2世の建造)の間を通って,アンコール・トムの東門に至ったように見える.
タ・ケオの南側を通る道を東にまっすぐ進むと,東バライ(人造湖)にぶつかっている.現在は,干上がった東バライをそのまま東進し,東メボン寺の南を通って,パラダク村 (Paradak) を通過して,東岸のサムレ砦 (Banteay Samre) の北側に出る.
(ここから北東 80km に一時遷都先のコー・ケー (Koh Ker) がある.)
水堀と川による防御ライン:
シャムとの戦争時(13 世紀後半)には,上記の堀は防御施設として機能したはずである.
アンコール・トムの北東に隣接するプレア・カン (Preah Khan) 寺とその東にある巨大な(東西 3.5km,南北 1km の)人造湖(中央にニャック・ペアン (Neak Pean = Jayatataka) のある湖)は,搦手の防御施設であったろう.
スラ・スラン (Srah Srang) 東端を通っていたはずのシェムリアップ川は,この辺りで水路を大きく西に偏向され,その後直角に折れて南下し,アンコール・トムに沿って流れている.
衛星写真をよく見ると,プレア・カンの西側にも,同規模の幅の帯が続いている.終点はよく分からないが,西バライの東端辺りまでは続いていそうである.これが,北辺の中郭ラインであろう.
アンコール・トム北西角から真北に向かって 1km だけ水堀がある.これは,中郭の外側を流れる堀の流路ではないだろうか.
シェムリアップ川は,アンコール・トムの北方 8km 付近でいくつかの川に分流している.
そのうち最も西側の川は,上図の西端にある Puok に至る.これが,北から西の外郭防御ラインであろう.(この川は,さらに南下し,プノン・クロムの西側を通って,トンレサップに流入するようだ.)
一方,最も東側の川は,前述のニャック・ペアン (Jayatakata) のある人造湖の東を通って,アンコール・トムの東側を南下し,シェムリアップ市街を通過して,トンレ・サップ(湖)に流入する.これが東側の防御ラインであろう.
なお,アンコール・トムの北方 4km に,北門からの道路を横断して東西に直線的に流れる分流(幅 8m)もある.これは,北側の外郭堀であろう.
戦争の歴史: シェムリアップ (Siem Reap) という地名は,「シャムが負けた」という意味である. カンボジア(クメール王朝)は,周囲からの侵略を受けている. アンコール・ワットが都であった頃は,西のシャム人やモン人,東の李朝,南東のチャンパ王国と戦っていた. 1177 年には,チャンパ王国(南ベトナム)の大軍がトンレサップ経由で侵攻し,アンコールワットを占領した. アンコール・トムを都としてから(1190〜1431 年)は,1283 年にクビライのモンゴル帝国が侵攻した. 13 世紀後半には,シャム(アユタヤ王朝)の侵攻が始まった.
備考:
小山状の寺院の内部は,版築になっている [石澤 1996].
Angkor Wat は「寺院のある町」という意味であり,Angkor Thom は「大きな町」という意味である.
[石澤 1996] 石澤良昭(上智大学外国語学部教授), クメール文化とアンコール・ワット, サイテックレポート, ソフィア サイテック, 第7号, 理工学振興会, 1996-04.
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