趣旨説明の本文以外にご周知頂きたい事項を記載しておきます。
これまで調べたところでは、用語「櫓台」は、寛永年間の文書に登場し、また正保城絵図や蓬左文庫の古城絵図にも記載があります。ただそれ以前の時代では「櫓台」という用語は使われていないようで、中世の段階ではこの用語はなかったのではないかと思われます。
ご報告頂く城郭については近世城郭、またいわゆる織豊系城郭は含めないこととしています。築城時代範囲についてはおおよそ次の時期を下限に考えていますが、各地域の状況に報告者の皆様にご判断いただくこととしています。
地域の発掘の成果で、土壇上ではなく曲輪の平地面に、櫓があったと想定されるような柱穴や礎石が発見されている場合なども、一応参考事例としてご報告頂くこととしています。
櫓台の平坦部の大きさの下限は、だいたい2間四方くらいを想定していますが、これも評価については各報告者がご判断頂くこととしています。
中世城郭の「櫓台」を正面から扱った研究は多くはありませんが、これまでの研究の中でいくつかの重要な視点が提示されてきました。本別紙は、報告準備にあたっての情報共有のため、代表的な論点は次の通りです。
山崎一氏は、櫓台には矢倉を構えられることもあるが、そのままにして臨時に井楼を建てるか、塀、柵等の造作を施すこともあると述べ、群馬県内の約30城の櫓台を挙げて、それらは台だけだったのではないかと推定しています。また、塁線から張り出した櫓台が持つ横矢の機能にも触れています(山崎 1971)。
中西裕樹氏は、摂津国の31城の山城を対象に、土塁に着目した分析を行いました。その上で、櫓台状に形成された土塁の多くが、虎口や導入ルートの制圧のために機能したと評価しました(中西 2000)。
福島克彦氏は、中世城館における櫓と櫓台の成立と展開を通史的に整理し、櫓台を曲輪の塁線や堀切と組み合わさる防御構造の一部として位置付けました。また、兵員の固定配置を意図した施設である点や、虎口と並んで当時の築城技術水準を測る指標となる点を指摘しています(福島 2003)。
西股総生氏は土塁の拡張や突出によって形成される櫓台が、横矢掛かりや、いわゆる火点として機能した可能性を論じました。また、上部に建物を載せることが困難な不定形の櫓台が存在した可能性を示唆しています(西股 2021)。
髙田徹氏は織豊系城郭研究の中で櫓台の位置や形状の分類を試みました(髙田 2017)。その後、発掘調査の成果から、必ずしも櫓の建設を前提としない櫓台の存在や、柱穴・礎石が検出されにくい実態を指摘しています(髙田 2025)。
山崎 一『群馬県古城塁址の研究』上巻、群馬県文化事業振興会,1971
中西裕樹「摂津国における中世城郭構造把握の試み―土塁の使用形態に着目して―」『中世城郭研究』第14号,中世城郭研究会、2000
福島克彦「中世城館における櫓台の成立と展開」『城館史料科学』創刊号、城館史料学会,2003
髙田 徹「6.櫓台」村田修三監修、城郭談話会編『織豊系城郭とは何か その成果と課題』,2017
西股総生「【第六章】横矢掛りと櫓台―戦国期城郭における火力運用の効率化―」『パーツから考える戦国期城郭論』株式会社ワンパブリッシング,2021
髙田 徹「櫓―敵を俯瞰し、攻撃を加える陣地」髙田徹編著『中世城郭の新論点』戎光祥出版株式会社,2025
垣内和孝「仙道の櫓台と横矢掛かり」『中世城館と南奥戦国史』第14章4,東京堂出版、2024
田嶌貴久美「印西庄の城郭-千葉県印西市・白井市の城郭様相-」『中世城郭研究』第36号,中世城郭研究会、2022
田嶌貴久美「下総小金領の城郭と突出する櫓台について」『中世城郭研究』第37号,中世城郭研究会、2023
田嶌貴久美「千葉県四街道市の城郭から見る下総国西部の櫓台様相(前編)」『中世城郭研究』第39号,中世城郭研究会2025
(図1,6)余湖浩一、渡邉昌樹『図説栃木の城郭』株式会社国書刊行会、2024
(図2,9,10)山本浩之「福島県南東部の櫓台」中世城郭研究会報告会資料、2026
(図3,7,11)東京都教育委員会編『東京都の中世城館』戎光祥出版株式会社、2013
(図4)田嶌貴久美「千葉県四街道市の城郭から見る下総国西部の櫓台様相(前編)」『中世城郭研究』第39号、中世城郭研究会、2025
(図5,8)田嶌貴久美「櫓台集成/神奈川県・千葉県北西部 (1)」中世城郭研究会報告会資料 2026
(図12)西股総生、松岡進、田嶌貴久美『神奈川中世城郭図鑑』戎光祥出版株式会社、2015