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明徳寺(みょうとくじ)城は、真田昌幸の沼田城攻めに重要な役割を果たしているにもかかわらず、これまであまり研究されていない。後述するように、既に山崎一氏の縄張図が公表されているが、現存する遺構と比較すると、櫓台や横矢の張り出しなど異なる部分も多い。発掘調査は行われていず、構造には未だ不明な点も多いが、基礎資料として簡易測量による縄張図を含め報告する。(なお、文中で敬称は省かせていただいた。)
明徳寺城(群馬県利根郡月夜野町後閑字城山)は、沼田城から利根川に沿って北西に5キロメートルの後閑(ごかん)にある。現在は、関越自動車道がすぐ脇を通っている。利根川、赤谷(あかや)川の合流点の北側は、戦国期には沼田に近い利根川の渡河点だったので、川の東側にはこの明徳寺城が築かれ、西側には名胡桃城が、両河川の間には小川城が築かれていた。明徳寺城は、名胡桃城から利根川を挟んで北東に2キロメートルの位置にある。 【明徳寺城と名胡桃城の地図】
少なくとも天正八年(1580)三月には、月夜野竹之下と後閑との間に橋が架かっていた(1)。『加沢記』(2)巻之三「竹下合戦可遊【←手偏】斎武略并塚本働之事」には、竹の下の橋での同年同月の真田昌幸と北条氏邦との戦いが詳述され、より信憑性の高い『沼田根元記』(3)にも同年同所での戦いが記されている。年不詳であるが、「猪俣能登守諸処手合覚書」(4)に後北条家臣の猪俣能登守(名胡桃城事件の首謀者)が「こかんノ橋」を2日間防衛したことが記されている。この場所は、古くは「徒渉(ただわたり)」とも呼ばれ、徒渉可能であった(5)。現在の月夜野橋の下流5百メートルの地点(6)であり、合流点の上流2百メートルである。明徳寺城は、ここから河原を北東に8百メートル行った丘上にある。
明徳寺城は後閑氏が築いたものであろうが、はっきりしない。沼田は、沼田氏滅亡後の上杉氏の時代を経て、天正七年に後北条氏が領有した(7)。
『加沢記』巻之三「昌幸公明徳寺の城責并美濃守忠信雲国寺之事」によると、天正七年十一月に北条氏邦は小川城、名胡桃城を攻めたが大雪のため鉢形城に退き、明徳寺城は、渡辺左近、西山市之丞、師大助らに守らせてあった。天正八年正月二十一日に、真田昌幸は、海野中務太輔を先駆として総勢七百余騎で夜のうちに利根川を渡り、「明徳寺の城」を攻めた。三十八歳の昌幸自ら大長刀で戦い、城外で迎撃した城代矢部豊後守以下二百余騎を破って、要害と下沼田まで放火した。明徳寺城には伊東備中守、出浦上総之介を残して、名胡桃城に引き上げた(8)。明徳寺城は、昌幸の沼田城攻めにおける利根川の橋頭堡となった。同年六月末には、沼田城が明け渡されている(9)。
廃城の記録は、管見では残っていないと思われる。天正十七年(1589)豊臣秀吉によって、後北条氏は名胡桃城を含む西部一帯を除く利根・沼田の地を安堵された。同年十月、沼田城代の猪俣能登守邦憲が名胡桃城を奪った。それを口実とする翌十八年の小田原攻めの後、利根・吾妻は再び真田氏の所領となった。このとき明徳寺城は廃城になったと思われる。
その後、江戸時代初期に、真田信政が城山の南部中腹に「四ヶ村(しかむら)用水」を通している(10)。第二次大戦末には、城山の地下に中島飛行機小泉工場の組立工場があった(11)。
関越自動車道を造る際、県内部分について群馬県教育委員会の調査(昭和58〜59年)があったが、城址の北側の部分は発掘調査対象から外された(12)。
『加沢記』には、「明徳寺の用害」、「明徳寺の城」として登場する。
南北朝時代末の明徳(めいとく)元年(1390)六月十五日に、後閑民部を開基とし天台宗の僧の松菴が元字沢浦(城の北2百メートルにある小高諏訪神社付近)に「年号をもって」湯泉山明徳寺を造立した(13)。享禄年間(1528〜1532) には無住になっていたところを、付近の玉泉寺五世元助和尚(天文十年(1541)十一月滅)が曹洞宗に改め、5代続いた。元禄年間(1688〜1704) に再び無住になっていたところを、安永四年(1775)に玉泉寺二十世古宗和尚が字城山に移した。場所は、明徳寺城の主郭北部である(14)。慶応元年(1865)に台風で倒壊し、明徳寺は城址西麓の現在地に移っている(図2)。
元号は現在「めいとく」と呼ばれているが、寺名も、多くの資料(15)の城名も第一字を「みょう」としている。
かつては天神山城と呼ばれていたという説もある(16)。
尾根の先端が広がり南に向かってやや下り傾斜した場所に築かれている。城域は、南北280メートル、東西100メートル、比高50〜65メートルである。大きいながらも基本的に単郭であり、東と南を高低差のある二重の土塁がめぐっていて、その間は横堀になっている。北部の二重土塁の外に小郭がある。遺構はよく残されているが、小郭の土塁と主郭の北西部および南端西側の土塁が破壊されている(17)。
現在、主郭内部は北から順に桑畑、笹薮、梅林、豆畑になっていて、東側中央に孟宗竹林がある。東側二重土塁の間の堀も孟宗竹林になっている。東側の城外は、現在は竹林であるが、かつては主郭内部とともに桑畑だった(18)。
先人の研究として、山崎一『群馬県古城塁址の研究』(19)が挙げられる。それに加筆をしたと思われる『日本城郭大系』(20)の図を載せておく(図1)。さらに改訂した図が、『群馬県の中世城館跡』(21)に載っており、それには「遠構」も描かれている(補註1)。その後の研究は見あたらず、地元の教育委員会も現地調査は行っていない。 筆者の縄張図を図2に示す。図の作成には、レーザ距離計 (Bosch DLE 150) とアリダード、場所によってはハンドレベルと関数電卓を用いている。 |
図1 山崎一の明徳寺城図 |
まずこの城の特徴を挙げる。これらのうち自明でないもの(4.〜10.)は、後で検証する。
1. | 曲輪内が南北180メートルの大きさであるのに、基本的に単郭である。 |
図2 明徳寺城 |
2. | 曲輪内は整地されているが、緩斜面のままである。内部が仕切られていたとしても、各曲輪を完全な平地にする意思は見受けられない。 | |
3. | 北部と西部の土塁の幅が、他所より広い。 | |
4. | 虎口と思われる土塁開口部の左右で塁線の方位角が異なり、開口部が曲輪の外側に張り出す向きに折れている(22)。塁線の折れ角は、どれもほぼ20度である。 | |
5. | 主郭虎口の外が急斜面になっていて、土橋や木橋を架けた形跡はない。 | |
6. | 虎口の幅が狭く、逼塞性の高い城である。 | |
7. | 外土塁の虎口の正面に内土塁の櫓台があり、虎口通路は櫓台を向いている。 | |
8. | 堀底に1.6メートル程度の段差が3段ある。 | |
9. | 堀底は、三つの櫓台を囲むように屈曲している。 | |
10. | 二つの虎口からなる桝形のような構造が2箇所あって、構成要素の配置と距離がよく似ている。 |
城の北側の尾根がくびれた部分に小郭があり、山崎一によって「郭馬出し」と呼ばれている(23)。主郭側に堀がないので橋頭堡とはいえない。むしろ、山崎一自身が書いている(24)ように枡形に近いものであろう。山崎一は名胡桃城追手虎口と同様に真田氏時代に付加したものと書いている(25)が、どうであろうか。むしろ、付加されたとするなら、沼田城への攻撃を川際でくい止める必要のあった後北条氏時代ではないだろうか。
図1には小郭の旧状が示されているが、残念ながら、現在は北の土塁が崩されながらも残っているだけである。その外側にあった堀は埋められている。現在の舗装路に沿って2箇所に日本道路公団の境界杭がある。境界杭は折れ点に打つものなので、これは土橋の西側の天端(図2のL左側の二点鎖線)の両端であろう。そうだとすると、土橋は土塁に対して垂直に架かっていて、堀幅は13メートルであった。平成元年(1989)に、堀を埋めた上に「みねの湯」が建てられた。そのとき、堀外側の丘が削り取られている。
小郭東側にあった土塁は完全に消滅している。かつては、この南端から東に出る虎口があり、水の手に通じていたという(26)。図1には井戸があるが、現在は埋められている。
小郭南側の土塁は旧状をとどめている。土塁中央付近に破壊によって拡幅されたと考えられる虎口Mがあり、その左右で塁線の方位角が一致せず、30度ほど折れている(ここだけは角度が大きい)。この虎口は、もともとはなかった可能性もあり、その有無は後述するようにこの城の構造を解釈する上で重要である。
虎口Mの南側の土塁の南端から、さらに幅の狭い小土塁Nが出ている。城の北東部は、何度か改造され破壊もされているようであり、とくにこの小土塁Nは増築の可能性が高い。その基部の土塁も、虎口Mの左右の土塁も幅が広い(3〜4メートル)のに、これだけ幅が狭い(1メートル)からである(27)。土橋L付近から堀内への射撃や視線を遮るためかもしれない。
山崎一は内部が3郭に仕切られていたと書いている(28)が、顕著な段差の痕跡は、中央部西側Jにわずかに残るだけである(29)。図1の段差に対応すると考えられる図2内の位置に想像線(E-J間の二点鎖線)を入れておいた。
東側北寄りの出張りCは、仕切り土塁の残骸であろう。そこから等高線に沿って段差の名残が微かにあり、道に出た箇所で通路脇の石列(後世のものと思われる)が途切れている。
主郭西側の土塁は一重であり、その下には腰曲輪がある。現在は幅が狭いが、かつては外土塁がめぐっていたのかもしれない。そうでなかったとすると、外土塁の南西端がどうなっていたのかが疑問となるが、それを解明する手がかりはない。図1によると、南西部Wには外土塁があったようである(30)。
山崎一によれば、東側外土塁の外側にも腰曲輪があった(31)とあるが、少なくとも現状では北部に幅2メートル長さ40メートルほどしか確認できない。東側にあった桑畑の造成などのために削られた可能性がある。段差Rの南東の土塁外側にある長さ10メートルほどの小台地も、腰曲輪の名残かもしれない。
二重土塁の間の堀底には、3箇所の段P、R、Sがあり、各段差は、ともに約1.6メートルである。
堀底は櫓台DとFを囲むように屈曲している。折れ曲がりを形成するために、櫓台の正面南北の外土塁が堀に出張っていて、櫓台から出張りまでの斜距離はそれぞれ約18メートルである。櫓台の北14メートルに各櫓台に向かって下がる段差PとSがある。ただし、段差Pは緩やかであり、段差Sは急である。これは、北側の段差Pが通路となっていたことを示唆する。その北でも、堀底道は櫓台Bを囲むように屈曲している(Bと開口部Oとの距離は15メートル)。
全体に、虎口のはっきりしない城である。主郭の内土塁で虎口があったと考えられるのは、東側の中央Eと南東部Gと北西部Kの3箇所であろう。
東側の虎口EとGは、多人数が一度に出入りできるようには見えない。通常の城のものとは異なって、虎口自体も堀に急坂で降りる通路も幅が狭すぎるのである。つまり、主郭は逼塞性が高い(32)。したがって、この城の虎口と城道を想定する場合、他の城での常識では量れないであろう。Kは破壊されていてどういう虎口だったか不明であるが、図1によると、平虎口だったようである。
南西部Hは他の虎口のような外への落差がないので、土塁が破壊されて開口したのであろう。脇に櫓台Iがあるので、すぐ外の虎口Wはもともとあったのかもしれない。この部分に土塁があり、土橋状の段差があったようである(図1)。現在も土橋の片側のような段差が確認できるが、H付近の土塁の破壊に伴うものであろう。櫓台Iと虎口Wとの距離は18メートルである。
最大の櫓台A(南北が16メートル以上、東西が推定9メートル)の脇の通路は、破壊によるのが明らかである。その理由は次のとおり。
1. | 通路は櫓台を突き抜ける位置にある。 |
2. | 通路の方位が土塁に対してかなり斜めになっている(垂直から約50度の傾き)。 |
3. | 通路の左右の塁線(とくに外側天端線と内側下端線)が同一直線上にある。これは、かつて左右の土塁が一体であったことを示唆する。 |
4. | 虎口Mがあったとして、二重土塁の同じ位置に開口していると、防禦上の弱点になる。虎口Mがなかったとすると、小郭からここまでの通路がないので、開口する意味がない。 |
ここが破壊道であるということは、その外側の堀にある土橋も破壊時に作成されたと見るべきである。
虎口Mが開口していたかどうかを考察する。虎口Mがあったかどうかによって、小郭からの通路が2通り設定できる。
どちらにしても、虎口Eはあったと考えるのが妥当である。
虎口Mが開口していたことを疑問視する意見が多い。筆者は、当初は虎口Qがあって通路は腰曲輪を経由する〔通路1〕であったが、後に虎口Mが造られて堀底を歩く〔通路2〕ができたと考える。虎口Mの左右の土塁は幅が広く改造によるものと考えられるので、土塁の積み増しとともに虎口Mを形成したのであろう(34)。その根拠を四つ挙げる。
1. | 虎口Mの南側の土塁南端にある櫓台が大きい(南北が10メートル、東西が8メートル)。土塁上から小郭と腰曲輪だけを守るなら、もう少し小さくてもよさそうである。虎口Mを造ったので、堀内の通路を狭めるために土塁を堀の内側に出張らせたのではないだろうか(35)。 |
2. | 櫓台Aが城内で最大である。虎口Mが開口していなくてもここが重要な地点であることに違いはないが、開口したためにより重要となり、最大の櫓台を造成したのではないだろうか。 |
3. | 腰曲輪の通路だけでは、小郭から出撃するのに危険である。多人数が主郭から小郭に移動するために狭い虎口Qから腰曲輪を通っていると、敵の攻撃にさらされる危険性が高かったであろう。なお、腰曲輪には土塁があった形跡がない(図1にも腰曲輪に土塁はない)。 |
4. | 段差Pが他の段差に比べて緩やかである。もともとあった急な段差を、通りやすくするために緩やかにしたと考えられないだろうか。ただし、これは後世の破壊による可能性もある。 |
虎口Mを造ったときに虎口Qを塞がなかったのは、虎口Qの外が現在と同様に梯子でないと上がれないほどの急斜面だったから塞ぐ必要性が少なく、何か開けておく利点もあったのであろう(水汲みなど)。
虎口EとGの周辺の構造はよく似ている。虎口左右の塁線は、ともに20度ほど折れている。虎口南側の土塁端はともにやや外に張り出していて、その上から北方向への俯射をしやすくしているように見える。(虎口Gの両脇の土塁は土取りによる破壊を受けている。)虎口の外側は堀であって、法面の傾斜は急である。(ただし、虎口Gにはかろうじて幅の狭い直線的な坂道が確認できる。) それぞれの虎口の20メートルほど北に櫓台DとFがあり、その正面やや南の外土塁に虎口QとTがある。これらの左右の塁線も、ともに20度ほど折れている。櫓台と虎口の斜距離は、ともに約18メートルである。虎口の通路は、正確に櫓台を向いている。櫓台の北14メートルに各櫓台に向かって下がる段差PとSがある。段差のさらに北20メートルほどの内土塁上には、段差に向かって横矢掛らしき出張り(Bと、Eの南)がある。虎口Qの南側(Rの東)に平場があり、横矢掛のように見える。虎口Tの南には櫓台Uがあり、南方から上がってくる道(図にはない)を警戒している。
以上のとおり、二つの虎口と段差と櫓台のセット(EDPQとGFST)は、無造作のようであるが、規格をもって造られているようにも見える。枡形のような機能をもっていたのかもしれない。
城道として(異論はあるであろうが)3系統を推定してみた。
1. | 虎口Eから急坂を堀底に降り、(虎口Qから、または段差Pを通って虎口Mから)小郭のLに出て、北の尾根に行く道。 |
2. | 虎口Gから堀底に降りて、虎口Tを通り、南の河原方面に下りていく道。 |
3. | 虎口K(またはW)から西に下りる道。 |
櫓台Dは、土塁から1.6メートルほど下がっている。なぜ下げたのか、またはなぜ土塁と同じ高さに盛り上げなかったのかは、不明である。比高が大きい(堀底から6.4メートル)ので、外土塁または堀底Pから櫓台Dに橋が架かるとは考えられない。比高が大きすぎると弓で射るのに不都合があったのかもしれない。
滝山城にも同様の遺構がある。小宮曲輪南端と、千畳敷南の郭の南端の櫓台である。本田昇は、低い部分に櫓を組み、曲輪から櫓内に水平に入れるようにしたのではないかという説を挙げていたと伊禮正雄が書いている(36)。しかし、この櫓台Dの場合は、幅が狭く、櫓が建っていたとは考えにくい。
虎口Mから外土塁を南下したところに開口部Oがある。これは破壊によるものであろう。左右の土塁下端の線がつながっており、開口部の底は内側の堀底より高くなっているからである。また、この左右の土塁上部にも破壊された痕跡がある。土取りであろうか。
櫓台Bにも土取りと思われる破壊痕がある。耕作のためかもしれない。これらの破壊は、土塁の片側だけから行われている。
南東2百メートルの字外城山の斜面にある直線状の土塁は、明徳寺城の附属施設ではないと考える。「遠構」(37)と呼ばれたこともあり、明徳寺城に関係する防禦構造物ではあろう。しかし、現在は関越道のためにわかりにくくなっているものの、城との間に沢があるので、存在地は城の隣の尾根であって、明徳寺城を直接守るための施設ではない。この土塁まで南から尾根上を逃げてきた部隊が、一時的に敵を食い止める役には立ちそうである(38)。
月夜野町教育委員会文化財係長の三宅敦気氏には、昭和期の地図と歴史、字沢浦についての情報、文献[5]の入手などに多大なご協力をいただいた。日本道路公団東京建設局の沓抜憲氏には、用地敷界杭の説明をいただいた。中世城郭研究会の八巻孝夫氏には文献[11]をご教示いただき、同氏と西股総生氏には遺構の検討でたいへん参考になるご意見をいただいた。深く感謝申し上げる。
(1) | 『群馬県の地名』[1](111頁)による。 |
(2) | 『加沢記・沼田根元記』[2](91頁)による。『加沢記』は、萩原進の解説によると、確認できる宛行状、安堵状、感状を引用していて信憑性が高い。『沼田根元記』巻末には「寛文十年(1670)五月二十五日謹記上」とあり、萩原進の補説によると、沼田藩の藩命によって編集した正式の史書らしい。伝承、調書調査などによるものを分け、より信憑性が高い。どちらも加沢平佐衛門(元禄五年没)著。 |
(3) | 『加沢記・沼田根元記』[2](216頁)による。「橋はせばしせき落され(中略)竹の下にも立ちかね後閑川原迄引けるとかや」とあって、この部分は伝承であるが、そのとき活躍した塚本舎人助に対する北条氏邦の知行状を直後で引用している。 |
(4) | 『沼田市史』資料編1 [3](780頁)文献史料323「猪俣能登守覚書」。 |
(5) | 『群馬県の地名』[1](112頁)による。万葉集(巻14・3413番)に「多太和多里」として登場するのは同所と比定されている。 |
(6) | 『角川日本地名大辞典』[4](1334頁)、および現地調査による。 |
(7) | 『沼田市史』資料編1 [3](712頁)文献史料198「北条氏政書状写」古河公方宛による。 |
(8) | 『加沢記・沼田根元記』[2](90頁)による。(補註2) |
(9) | 『沼田市史』資料編1 [3](714頁)文献史料215「武田勝頼判物写」天正八年六月晦日 藤田能登守宛に「今度以忠節倉内之城明渡」とある(倉内之城は沼田城のこと)。 |
(10) | 『群馬県の地名』[1](112頁)、および『古馬牧村誌』[5](130頁)による。承応元年(1652)の完成まで3年かかっている。 |
(11) | 『角川日本地名大辞典』[4](1334頁)、および三宅敦気氏(月夜野町教育委員会)の話、2005年6月。 |
(12) | 三宅敦気氏の話、2005年6月。 |
(13) | 明治十九年『寺籍財産明細帳』[6](曹洞宗の全寺院について、その開創からの歴史も記してある稀有の史料)による。 |
(14) | 三宅敦気氏の話、2005年6月。月夜野町文化財調査員の増田清三氏による。 |
(15) | 『沼田市史』通史編1 [7](589頁)、『日本城郭大系』[8](325頁)、および月夜野町教育委員会の現地説明板。 |
(16) | 山崎一『群馬県古城塁址の研究』[9](283頁)、および『日本城郭大系』[8](325頁)による。 |
(17) | 破壊につながったと思われる地表面遺物について記しておく。主郭北部の櫓台A(図2)脇の土塁を削って墓があり、その西にやはり土塁を削って地蔵群が置いてある。主郭の北西下には水子地蔵があり、その40メートル南にもコンクリート台上に地蔵群がある。さらに80メートル南下した櫓台Iの下にも地蔵群がある。図1に水子地蔵はないので、地蔵群とともに昭和46年に計画された関越自動車道の建設時に外部から移動してきたものであろう(三宅敦気氏の話)。水子地蔵の土台の建設時に、土取りのため主郭北西部の土塁が破壊されたと思われる。耕作のためかもしれない。地蔵群のコンクリート土台を造る作業によって、南部の外土塁が破壊されたのであろう。 |
(18) | 昭和46年(1971)発行の都市計画図による。 |
(19) | 『群馬県古城塁址の研究』[9]。ほとんど同じ文と同一図が『古馬牧村誌』[5](1150-1153頁)にも載っている。 |
(20) | 『日本城郭大系』[8](325頁)。 |
(21) | 『群馬県の中世城館跡』[10](271頁)。 |
(22) | 虎口の右側または左側の各土塁や、主郭南部と西部の土塁を見れば、築城者が直線状の土塁を築けないわけではないことは明らかである。 |
(23) | 『群馬県古城塁址の研究』[9](283頁)、および『日本城郭大系』[8](326頁)にある。 |
(24) | 『古馬牧村誌』[5](1151頁)に「郭馬出し(或は枡形郭)」とある。 |
(25) | 『群馬県古城塁址の研究』[9](282頁)による。 |
(26) | 『群馬県古城塁址の研究』[9](282頁)による。 |
(27) | この小土塁のすぐ南側が撹乱されているので、この小土塁も撹乱を受けた可能性がある。しかし、法面の角度から推定して、上部の幅は狭かったと思われる。 |
(28) | 『群馬県古城塁址の研究』[9](283頁)による。 |
(29) | Jの南18メートルの通路脇に2畳ほどの大石が埋まっている(主郭内の畑地主の一人である増田金司氏の話、2004年10月)。石碑の可能性もある。 |
(30) | Vから下りる道は破壊道であろう。水子地蔵を移設したときに拡幅されたようである。 |
(31) | 文献[5]、[8]、[9]の図と文、および文献[10]の図。 |
(32) | これらの虎口(とくにG)が開口していなかったという見方もあるだろうが、もしそうだとすると、ますます逼塞した主郭であったということになる。 |
(33) | 堀にいったん入ってから外土塁に上がるという通路は考えにくい。堀に入れずに直接外土塁に上げたほうが防禦上有利だからである。 |
(34) | 私見では、名胡桃への真田氏の進出があったときに、沼田を守る必要性から、後北条氏が出撃に便利な虎口Mを造ったと考える。 |
(35) | この土塁の正面(塁線に垂直な方向)は、小郭の東方面からの攻撃に備えるために東を向いているのかもしれないが、それにしても南端の櫓台は奥まりすぎている。 |
(36) | 伊禮正雄「滝山城について」[11](14頁)による。 |
(37) | 『群馬県の中世城館跡』[10]城館蹟一覧表(159頁)および図(271頁)。 |
(38) | 西股総生が「城の外にひろがるもの」[12]で述べている「外帯部施設」の一種かとも思うが、そこで例として挙がっている八王子市の初沢城や神奈川県足柄下郡の土肥城では遮断線の背後に城が存在しているのに対し、この土塁背後の北の尾根には城がない。神奈川県足柄上郡の鴨沢要害のような独立した砦の遮断線構造ととらえるほうがよいのではないだろうか。 |
[1] | 「後閑村」『群馬県の地名』日本歴史地名大系10, 平凡社, 1987. |
[2] | 沼田市編『加沢記・沼田根元記』沼田市史 資料編1 別冊, 1995. |
[3] | 沼田市編『沼田市史』資料編1, 1995. |
[4] | 「後閑」『角川日本地名大辞典』10, 角川, 1988. |
[5] | 古馬牧村誌編纂委員会編『古馬牧村誌』月夜野町誌・第2集, 1972. |
[6] | 『寺籍財産明細帳』明治十九年調査, 16-1, 曹洞宗宗務庁, 1886. |
[7] | 沼田市編『沼田市史』通史編1, 2000. |
[8] | 平井聖ほか編『日本城郭大系』4, 新人物往来社, 1979(325, 326頁). |
[9] | 山崎一『群馬県古城塁址の研究』(下), 群馬県文化事業振興会, 1972(282, 283, 446頁). |
[10] | 群馬県教育委員会事務局文化財保護課編『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会, 1989(159, 271頁). |
[11] | 伊禮正雄「滝山城について」『多摩考古』12, 1972(1-15頁). |
[12] | 西股総生「城の外にひろがるもの」『中世城郭研究』17, 2003(4-42頁). |
(1) | 遠構は、山崎一『群馬県古城塁址の研究』(補遺篇上巻)、群馬県文化事業振興会、1979(203頁)で既に描かれている。 |
(2) | 明徳寺城攻めの時期はもう少し遅く、同年閏三月ごろではないかという、おそらく文献に基づく指摘(最下部)があり、それは註(3)の竹の下の橋での合戦の時期と矛盾しない(追記 2014-03-23)。 |
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