個人的感想ながら、近年のセミナーシンポジウムに参加していると、常態的に物足りなさを感じてしまう。以前はこのようなことはなく、毎年セミナーでの一般報告を聞くのが楽しみだったし、シンポジウムの討論に食いついていこうと、必死に耳を傾けていた。それが最近では途中退席したり、居眠りしたり、フロアで購入した本を読んで時間を潰したりということが多くなってしまった。
その理由は様々考えられるが、大きな理由としてメインテーマに魅力がないことが挙げられる。昨年(平成 30 年)のシンポジウムメインテーマは「馬出を考える — 定義と分布 —」であった。このようなテーマとなった裏事情もあるのかもしれないが、趣旨説明を見る限りは、「馬出は城を考える上での重要なパーツとみなされていますが、このセミナーではこれまでテーマとして取り上げられたことがありませんでした。」と述べられている。今まで取り上げられていないから、取り上げたというのならば、いささか安易に過ぎるのではないか。
同趣旨文では続いて、「全国の研究者がもつ情報の共有化を図り、問題点の共通認識をもつことができればと考えております」とあるけれども、共有化を図ろう、共通認識を持とうというのならば、まずは主催者側が、馬出研究において現状では何が問題となっているのか、問題となっている事例は何か、その検討を進めることによって何が明らかになるのか、見通しはあるのかといった問題意識を持たねばなるまい。その上で、各報告者を選定し、各報告者に対して主催者側の意図や条件等を伝え、場合によっては事前協議、問題点の共有化を図るべきであろう。
髙田は、第 33 回のセミナーシンポジウム「連続空堀群再考」が行われた際、報告者の一人として登壇した。この折も、第 36 回の折にも言えることだが、北から東北、関東、東海という具合に、各地域から報告者を選んでいくというスタイルが多く取られる。同じく髙田が登壇した、第 17 回のセミナーシンポジウムでも、基本は同じであった。地域ごとに報告者を立てること自体は、何もあれこれ言うべきことではない。
ただ主催者側から、具体的な説明やどのような形でシンポジウムを行いたいのか、意図なり主張なりを明瞭に聞かされた覚えがない。特に「連続空堀群再考」の場合は、そもそも用語自体に違和感を覚えるものであった。やはり何故そのようなテーマを選んだのか? という点が第一の疑問であった。当日は壇上で多少の演出も交え、怒りモードで主催者側を批判したのを覚えている(笑)。その折のセミナー資料集中の自らの原稿を見返しつつ、当時の趣旨説明を読み返してみると、連続空堀群について ① 多角的な検討、② 新発見された事例への注視、③ その「意味合い」を整理する機会、とするといった素案が提示された程度だったようだ。これは基本的には昨年の「馬出を考える — 定義と分布 —」も同様であり、顧みるに髙田が関わらない過去のセミナーシンポジウムでも同様だった感がある。
多角的な検討なり、新規発見事例の検討なり、あるいは再整理が無駄であるとか、無意味だというつもりは毛頭ない。問題は、それをどのように組み立てていくか、調整するか、具体的な論点をどう定めるか、といった点にあると考える。「連続空堀群再考」の報告依頼を承諾した後も、上記の点について 2 度ほど主催者側に質問したが、はっきりした回答を得た記憶がない。主催者側(司会担当)からは、個別報告が終了し、午後からのシンポジウム開催に先立つ昼休みのわずかな時間に、アバウトな進行が確認された程度。それも報告者それぞれが補足説明を順に行い、次に会場からの質問に答え、それからいくつかの論点をめぐってやりとりしていくという、お決まりのパターンだった。これで話がまとまるのだろうか。まとめるのは元より難しいに違いないが、どれだけの参加者が「参加して良かった。」と感じるのだろうか? と思った次第。どうも主催者側には、緊張感が欠けているように思われた。真摯な討論を行おうとする様子が窺われなかった。
「連続空堀群」の場合、呼称も統一されていなければ、扱う範囲にもバラツキがあった。「馬出」の場合には、各報告者は思い思いの馬出事例を紹介していた感があった。こんなことでは、定義付けや統一化は到底無理である。
実際のシンポジウムでは、時間つぶしに終始している感もあった。前述したような、お決まりパターンである。会場からの質問に回答するのは良いが、本論に入る前ならばサラリと済ましておくべきではなかったか。一方で終了時間前にほぼ予定討議を終えてしまい、会場に向かって話題を求める場面もあったと記憶する。それだけ難しい内容のシンポジウムだったのかもしれないが、それならば違うタイトルを選択すべきだったと思えてくる。決定したメインテーマで突き進むのならば、主催者(中世城郭研究会)側に相応の事前勉強が求められたのではないか。誤解なきように申し添えれば、壇上に上がった報告者の報告内容にケチをつけているわけではない。個別事例では、確かに興味深い新視点、提言がなされていた。要は報告内容を活かすも殺すも主催者側(限定的に言えば司会進行)次第、とは言い過ぎだろうか。
今後もシンポジウムを続けていくのならば、何故そのテーマで開催するのか、開催によって何を論点とするのかをしっかりと事前に時間をかけて協議すべきであり、主催者側の考えを報告予定者にあらかじめ丁寧に伝えておくべきである。参加者にアンケートを取り、率直な感想を問うのも一案である。辛辣な意見・感想もあるかもしれないが、真摯に耳を傾け、改善できるところは改善に努めるべきでないか。参加者が何を求めているか、何を求めてセミナーに参加しているか等、今一度考え直してみてはどうか。
今回のメインテーマ「真剣討論・城郭研究」開催に先立ち、中世城郭研究会と協議を行う機会があった。その際、上記のような点も述べた上で、時間的な問題をクリアし、かつ雰囲気等を変えるため、今年は城郭談話会の例会形式(通称:談話会形式=近大方式。中世城郭研究会例会も似たスタイルであると聞いている)の縮小バージョンで、報告者 7 名による質疑応答を行うことに決まった。
城郭談話会では、8 月を除く第 2 土曜日に例会を行っている。例会の通常スタイルは 1 名の場合、報告時間が 1 時間から 1 時間半、休憩を挟んで質疑応答に 1 時間半から 2 時間をかけるというものである。
質疑応答では、まず事実確認が行われる。この際には、初歩的なわからないこと、聞き漏らしたこと、聞いて理解しづらかったこと、討論に先立って確認しておきたいこと等が質問される。それに対しては、当然かみ砕いた丁寧な説明・回答がなされることになる。
続く討論では、レジュメの章ごとに意見や疑義が呈される。報告者の知らなかった史料や先行研究が示されることもある。わからないこと、知らなかったことは素直に認めた上で、教えを請えばよい。納得できなければ、冷静に反論だ。時にヒートアップしたり、袋小路に入ることもある。そんな時は当日の司会進行が適当に差配する。司会は討議上、重要な役割を担うから、当然責任も重い。
城郭談話会での討議を初めて聞く参加者の中には、驚く人が多いようだ。しかし、状況が理解できるようになれば、それが当たり前になり、やがて自らも同化していく。かくいう、髙田もその一人だ。
ところで討論は、相手をやりこめるとか、主張を封じ込めるとかといった悪意をもってなされるものではあるまい。問題点を明らかにしたり、問題点を気づかせたり、方向修正を示すべきもの、と髙田は考える。討論を通じて学ぶのは、報告者だけに止まらない。意見を述べる側も、一連の討論を経て気づかされること、ひらめくこと、得心することはある。互いが進歩、成長できるような討論を目指したい。
何の世界でも言えることながら、批判するのは容易いことである。しかし、建設的な討論をするためには批判だけで終わってはいけない。どこがおかしいか、まちがっているかなど、討論を通じて明らかにし、その上で対案を提示するなり、新たな方向性を示すことが求められる。
今回の報告者 7 名が、上記のような趣旨を理解して頂いた上で快諾頂いた点には感謝申し上げたい。きっと素晴らしい内容の報告ばかりと思いたいが、それは保証の限りではない。仮に問題点が多い報告ならば、何が悪いのか、どうすれば改善できるのか、共に考えて頂きたい。レジュメの作成方法や形式的な面のアドバイスだって歓迎である。ただ惜しむらくは当日の時間は、わずか 30 分しかない。それでも 30 分あれば、それなりの質疑応答が可能になるはずだ。セミナーは、お偉い先生方の講演会の場ではない。青くさい、未熟な内容であっても良いだろう。それが互いの成長の場となれば良いではないか。
ちなみに髙田としてはタイトルに「討論」「議論」等を入れたらどうかと提案したが、最終的には第 36 回全国城郭研究者セミナー実行委員会内での検討を経て、「真剣討論・城郭研究」に決定した。これはこれで構わないのだけれども、「真剣」とはいささか仰々しい感がある。同時に今までは「真剣」ではなかったのか? と突っ込みたくもなるが、やめておこう(笑)。
というわけで報告者 7 名には、まず談話会方式での質疑応答に時間を取ること、論点を作ること等をお願いしている。激しい意見がぶつけられるかもしれないと鎌をかけたが、7 名とも物おじせず“受けて立つ!”との意気込みを見せてくれた(と、髙田は受け止めた)。勇気ある 7 名の報告を受けて実りある討論を期待する。
7 名の報告がどのような内容となるのか、タイトルは聞いているが詳しい打ち合わせはしていない。というのは、髙田自身も討論を楽しみたいからである。適当な落としどころを前提にした打ち合わせをすれば、髙田としては面白くない。髙田が面白くないものは、会場の参加者も退屈になるのではないか? と思ったからだ。だから、司会進行であるとは言え、髙田は大人しく上品にしゃべるつもりはない。髙田がうるさいと思った方は是非手を上げて、討論に加わり、進行を遮らない程度に髙田の口を封じてほしい。
討論を聞くのは面白いが、討論に参戦し、自らの意見をぶつけるのはもっと面白いはずだ。恥ずかしい、緊張すると感じるのは、恐らく最初だけである。引っかかること、聞いてみたいことをそのままにして帰ってしまうのは、あまりに勿体ない。思い切って、挙手してみよう。セミナーも、この企画も、開かれた場である。参加した証しを残してみてはどうだろうか?
今回の「真剣討論・城郭研究」は、過去のセミナーシンポジウムを顧みての企画である。過去のセミナー報告、シンポジウム、開催自体が今日の城郭研究上、果たした役割は実に大きい。髙田にも、「自分も、いつの日かセミナー報告をしてみたい。」と思っていた過去がある。初めてセミナーに参加した時の、胸の高まりは今も忘れない。もちろん、初めて壇上に上がった日のことも。初参加以来、毎年八月のセミナー開催を誰より楽しみにしている自分がいた。もちろん、令和元年八月に行われるセミナーに関しても同じである。しかし、現状維持に満足していてはいけない。危機感を持つことも必要だ。今後の継続発展を考えるのならば、時代やニーズ等に応じた改革が必要となる。実際、改革はすでに進行中の模様である。
それでは「真剣討論・城郭研究」が今後のセミナー変革の第一歩になること、城郭研究の進展につながることを何より期待する。そして有意義な討論を通して、有意義な時間を共に過ごせることを喜びとしたい。