Pen-Mark 慶應義塾大学工学部
1974 年卒(32 期)同期会
 連合三田会大会(2013年10月20日) 
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Updated 2013-12-30

32講演会の内容

「地方に生きることとグローバルであること」というタイトルで,晝田 眞三 君に日本のモノづくりの中核である自動車産業界におけるヒルタ工業株式会社について話していただきました.

質疑応答中の晝田君

  晝田 眞三 君(同期 機械工学科卒)

国内外で熾烈な競争を展開する自動車産業界において,経営者として,幾多の苦難を乗り越え発展させてきた晝田君の貴重なお話を拝聴することができ,たいへん啓発されるところがありました.

豪雨にもかかわらず, 参加人数: 同期生 = 22 名,工学部同窓生 = 3 名

藤野 明夫 君(管理工学科卒)による報告

↓ 下記と同じ内容の 原稿.pdf (= 原稿.doc)

2013年 32講演会 概要

【日時】  2013年10月20日(日)11:00〜12:30(連合三田会)

【場所】  日吉キャンパス 大学第4校舎 J425 教室

【講師】  晝田 眞三 君(同期 機械工学科卒)

【テーマ】 「地方に生きることとグローバルであること」

【講演内容】

1.自己紹介と講演の趣旨([付録1.略歴等] を参照)

1974 年,機械工学科卒,1976 年,大学院修士課程修了(佐藤豪研究室) .大学院修了と同時に曙ブレーキ工業株式会社に入社したが,学生時代からの眼の病気のためわずか2年で辞めざるを得なくなり,父の会社である晝田工業株式会社(現 ヒルタ工業株式会社) に入社した.しかし,この病気の経験が,経営者としてやっていく上でたいへん役にたっている.

地域社会の発展に寄与したいと思っている.第三セクターである井原鉄道の監査役,地元の工業団地の理事長など地域の経済社会を支える役職に就いている.こちらの方に力を注ぎたいので,2011 年に社長の座を弟に譲り,会長に就任した.

本日は,ヒルタ工業の紹介およびヒルタ工業の発展の歴史を通じて,あくまでも地場にこだわりつつ,同時に日米貿易摩擦後の自動車メーカーのグローバル展開に合わせて,早い時期からグローバルに事業を展開してきたヒルタ工業の発展過程をご紹介したい.

2.ヒルタ工業の発展過程と特徴([付録2.ヒルタ工業について] を参照)

(1) 会社概要

ヒルタ工業株式会社は,従業員約 1,000 名,自動車部品を開発,製造する自動車部品メーカーである.

オート三輪の泥除け 1928 年に広島県福山市で繊維染色工場を設立したのが始まりである.第二次大戦中の 1944 年に三菱重工業株式会社水島製作所の戦闘機部品の製造を受注したのが機械部品生産の端緒であり,この縁で 1946 年に三菱重工業水島自動車製作所の自動車部品の製造を開始した.最初はオート三輪の泥除けであった.以降,三菱自動車を主要なお客様とし,岡山県を本拠に部品メーカーとして成長,現在に至っている.

主な製品は,(a) サスペンションなどの足回り部品,(b) インテークマニホールドなどのエンジン周辺部品,(c) ステアリングコラム,ペダルなどの操作系部品である.他に,空気清浄機などを製造している.

国内は,三菱自動車の水島工場に近い岡山県内3地域に工場をほぼ集約(他に,豊橋工場,平塚工場) .

海外は,1988 年の米国を皮切りとして,タイ,中国,メキシコに生産拠点を展開している.

(2) ヒルタ工業の特質

技術立社がモットーである.技術立社の具現化の第1は,先行技術開発である.約 1,000 名の従業員の 15% が技術研究および開発に携わっている.先行開発により,お客様(自動車メーカー) から新たな要望が出てきたときに十分に対応するアイデアを提案でき,さらにお客様の一歩先を行く提案ができる.

脚まわりの振動試験装置も所有する 2点目は,部品メーカーとして一貫生産を基本としていることである.金属部品製造に関するあらゆる要素技術,すなわち,プレス加工,溶接加工,切削加工および組立・塗装技術を保有している.プレス加工の金型も自社で作っている.技術開発能力と一貫生産の能力を保有することで,開発と試作が並行して実施でき,お客様,開発部門および生産現場相互の緊密なインタラクションが実現して,他が真似のできない高度な製品を開発,生産することができる.また,一貫生産能力があると,より大きな単位の部品を受注することができ,ビジネスチャンスが拡大する.

先行技術と一貫生産の能力は,お客様からビジネスパートナーとして認められる大きな武器になっている.主要取引先の三菱自動車がダイムラーに買収されたときに,三菱自動車の国内一辺倒の部品調達を改め国際調達にすべく,ダイムラーから残すべき国内部品メーカー選定の視察団が来たが,当社のサスペンション技術が評価され,三菱自動車グループ内で引き続きビジネスを続けることができた.

海外も含め競争が激化するなかで,自分の力で道を開かなければ未来はない.先行技術開発能力と一貫生産能力があれば,何でも自前で行うことができ,成長戦略も描くことができ,さらには危機に際して様々な手を打つことができる.

以下,いくつかのトピックスにより,ヒルタ工業がどのようにして危機をチャンスに変え,地場にしっかり根をおろしながら,グローバルに展開してきたかをご紹介する.

3.東日本大震災への対応

3.11 東日本大震災の際は,メーカーが生産を停止したので,一時は操業が6割減少,すなわち操業率4割という事態に陥った.これを解決するために次の三つの手を打った.

(1) 雇用の確保のための政府助成金の請求

操業6割減少という状況に対してまずしなければならないことは,雇用の維持である.そのために,政府の雇用確保施策に応じ,平均4日間の休業によって助成金を得て,雇用を維持した.

(2) 中国で初の工場建設開始

震災による延伸の議論もあったが,中国における初めての工場建設を震災直後の 2011 年 5 月に着手した.今や世界最大の自動車生産台数を誇る中国に日本の自動車メーカーが次々と進出するなかで,部品メーカーとして早期の対応が急務であったからである.場所は,トヨタ,日産,ホンダの工場がある広東省である.三菱自動車も,隣の湖南省に工場を建設中であった(2011 年 5 月時点,2012 年 10 月,生産開始).

(3) 豊橋工場の操業開始

国内の拠点 延期も検討したが,自動車の産業集積としては日本一である中部地方に初めて建設した豊橋工場の操業を,2011 年 7 月に開始した.一地域への工場の集中は自然災害の際のリスクが大きく,生産拠点を分散させることが必要という東日本大震災の教訓への対応策である.トヨタ自動車のすぐ隣に工場を作ることで,受注先を拡大し,早期に生産を震災前の水準に回復させる狙いもあった.

東日本大震災による経営危機をどう乗り越えるかを考え対応することで,我々チームとして貴重な経験をした.将来を見据えた積極的な成長戦略が,経営危機を乗り越えるためのひとつの鍵になると思う.

4.海外展開

1980 年代半ば,日米貿易摩擦への対応で日本の自動車メーカーが一斉に米国進出を始めた.当社も 1985 年に米国に営業所を設置し情報収集にあたり,1988 年から工場での生産を開始した.

この間,米国の企業から合弁事業の話がいくつかあった.結局実現しなかったが,米国の企業のオペレーションのやり方や経営者の考え方を学ぶことができ,大いに勉強になった.

海外の拠点 将来の需要増が期待される東南アジアの生産拠点として自動車メーカーが大挙して進出し,一大産業集積を形成しているタイに,三菱自動車に合わせて進出した.三菱自動車グループ各社と合弁で作ったタイの会社の株式を 2004 年に 51% 取得して子会社化し,本 (2013) 年 6 月には株式を買い増し,76.5% とした.さらに,2008 年に二つ目の工場を設立した.タイは,限られたエリアに多くの自動車メーカーと部品メーカーが集中し,今後の発展が期待される.

また,2012 年にメキシコにも工場を設立した.

海外の工場については,一貫生産は現地で実施するが,技術は岡山の本社から提供する.

5.地場に立脚した新技術開発への参画

インホイールモーター(*1) 式電気自動車の足回りを開発している.

インホイールモーター車 (EV) 慶應義塾大学の清水浩教授が開発したインホイールモーターを動力源とする電気自動車を開発する,株式会社 SIM-Drive(*2) のプロジェクトに,当社の得意とする足回りの技術で参画している.この会社は,岡山に本拠を置くベネッセの福武總一郎氏が出資者であり,地場産業の育成という面もある.

さらに,岡山の自動車産業集積を活かし,次世代自動車に求められる新技術・新製品の創出や人材育成を図ることを目的に,2012 年から3か年でインホイールモーター駆動の電気自動車を開発するコンソーシアム,「おかやま次世代自動車技術研究開発センター (OVEC: Okayama Vehicle Engineering Center for the next EV)」にも参加し,インホイールモーターを中心とする足回り部品の開発に取り組んでいる.OVEC には,県内ものづくり企業 16 社が参加している(*3)

注は藤野が補足

(*1) 車輪のハブ内部に直接電動モーターを装備し,モーターと車輪をバネ(減速ギヤを介す場合もある) を介して直結し,プロペラシャフト,デファレンシャルギアなどのパワートレインを不要にした駆動装置.これによってエネルギー損失が小さくなり,重量も軽減でき,複雑な機械部品が不要になる.変速機を必要とせず小型化が可能な電動モーターの特質を活かした革新的な技術である.内燃機関では不可能な各車輪ごとの個別制御が可能になり,自動車の運動能力に革命を起こす可能性がある.たとえば,車輪の舵角に制約がないので向きを 90 度変えることも可能であり,車両の横移動が可能になる.また,前後の車輪の回転方向を左右で真逆にすれば心地旋回(車両の中心を軸としたその場での回転) ができ,狭隘な場所での方向転換が可能になる.

(*2) SIM-Drive: Simizu In-wheel Motor-Drive の略,インホイールモーターに特化した電気自動車を開発する会社.2009 年 8 月の設立時から 2013 年 3 月まで,清水教授が社長を務めた.

(*3) OVEC 参加企業: 岡山県の総社市,倉敷市,笠岡市,岡山市などに拠点をもつ部品メーカー 16 社が参加,アドバイザリー企業として,三菱自動車工業と SIM-Drive が参加.

6.危機管理

3重の防御 2011 年秋に発生したタイの大洪水で,日本から進出した自動車メーカーおよび部品メーカーが大きな損害を被った.10 月 14 日以降,日本の自動車メーカーの生産が約1か月間停止し,再開は,日産,マツダ,三菱自動車が 11 月 14 日,トヨタが 11 月 21 日であった.そのなかで,当社は全く水害の被害を受けなかった.工場の防壁の上にさらにビニールシートによる防壁をかさ上げし,水の浸入を防いだからである.当社の最大の取引先であり,タイが主要海外生産拠点である三菱自動車の社長が訪問されたときに大いに誉められた.現場が,危機に際して先回りし,適切な対応ができた.

7.おわりに

アベノミクス効果かもしれないが,自動車産業は明るさを取り戻してきた.経済というのは気分の問題も多分にある.この復調が本物になれば良いと思う.



質疑応答

Q1: タイの洪水の際,なぜ,トヨタだけが他の3社より再開が1週間遅れたのか.

A1: よくわからないが,三菱自動車の益子社長は,三菱商事出身で他の自動車会社社長よりは柔軟なところがある.少なくとも三菱自動車が早かったのはそれが一つの要因ではないか.

Q2: 「地方に生きる」ということの意味は何か.

A2: 自動車産業は地方にいることに意味があると考える.ひとつのことに集中できる.家電は都市化し過ぎて,いろいろ手を出し,上手くいかなくなったのではないか.



所感

先行技術開発と金型製造まで取り込んだ一貫生産,これがヒルタ工業の強さの秘密であろう.この二つがあれば何でも自前でできる.自動車メーカーからの先進的要求に対して,開発と試作を並行させることができ,敏速,かつ,的確に対応することができ,さらには,自動車メーカーの想定以上のものを提案できる.また,海外進出に当たっても,一貫生産の能力があれば,他の部品メーカーと一緒に進出する必要がなく,自らのデシジョン一つで行動が起こせる.

これが,震災直後に,中国工場着工と豊橋工場の操業開始の意思決定が敏速にできた所以であろう.一貫生産能力がなければ他の部品メーカーの動向を見ての決断になり,意思決定が遅れたかもしれない.

また,インホイールモーターを最大の特徴とする SIM-Drive への参画は,先行技術開発と地域への強いこだわりが結実したものであろう.岡山に本拠を置くベネッセの福武氏がスポンサーである SIM-Drive と,インホイールモーターにおける最重要の技術的課題の一つであるサスペンションなどの足回り部品に,強い技術力を持つヒルタ工業が結びつくのは,ある意味で自然の流れであると思うが,そこに間髪を入れずに参入できるのは,先行技術開発に関する強い自信と,新しいものを手がけていかないと生き残れないという強い危機感があるからだと思う.

しかし,ヒルタ工業をここまで発展させてきたのは,それだけではないと思う.自前技術に対する徹底したこだわりと,課題に対して自ら考え,自ら対処するというよき風土の醸成と維持に努め,チームワークを大切にする晝田君の姿勢が会社のムードをたいへんよいものにしているのであろう.それは,ビデオで紹介される各部門の責任者の発言や物腰からも伝わってくる.タイの洪水に際し,防壁をビニールシートでかさ上げし浸水を防いだという話は,おそらく現場の判断で行ったものだと思う.晝田君が醸成してきた風土が社内に浸透しているからではないか.

日本のモノづくりの中核であり,国内外で熾烈な競争を展開する自動車産業界において,自分の会社を,経営者として,その特質を醸成し,かつ,積極的に活用することで,幾多の苦難を乗り越え発展させてきた晝田君の貴重なお話を拝聴することができ,たいへん啓発されるところがあった.また,同時に,本日のお話は,日本の製造業の生き残りのひとつの道筋を示していただけたのではないかと思う.

藍綬褒章を受賞されるほどの立派な仕事をしてこられ,今後は,地域のために尽くすと決断された同期生にエールを送りたい.どうか,いつまでもお元気でご活躍ください.

藤野(管理工学科卒)記

晝田 眞三 君の紹介

略歴
昭和49年 工学部機械工学科 卒業
昭和51年 大学院工学研究科機械工学専攻修士課程 修了
同年   曙ブレーキ工業入社
昭和53年 晝田工業株式会社(現・ヒルタ工業株式会社)入社
平成02年 同社 代表取締役社長 就任
平成23年 同社 代表取締役会長 就任

その他
平成18〜25年 一般社団法人 日本金属プレス工業協会 会長
平成16年〜  一般社団法人 日本自動車部品工業会 理事
平成22年〜  一般社団法人 岡山県労働基準協会 会長
平成22年   藍綬褒章 受章


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