小机城
こづくえ じょう

論文と縄張図
改訂: 2015-10-26
改訂: 2010-08-21

使用している城郭用語の概説 作図中の画像

dot 論考.doc (33KB) …… 下記文書とほぼ同一(ただし,縦書き,漢数字)

発表: 『東国の中世城郭中世城郭研究会, 2010-07-30, pp. 78-79.

小机城

西村 和夫

(1) 所在地: 神奈川県横浜市港北区小机町(地図
(2) 標高/比高 39m/28m
(3) 主要参考文献: 西股総生「小机城とその支城」『中世城郭研究』10号, 1996
(4) 掲載した国土地理院発行 1/25,000 地形図の図名: 荏田
(*) Wikipedia: 小机城

 初めは,在地領主小机氏の屋敷が城周辺のどこかにあったのだろう.丘陵上に本格的な城郭が構えられたのは,長尾景春の乱(1478)の頃と考えられる.扇谷上杉家の宰相太田道灌が攻略した.その後,16 世紀に後北条氏がこの城を領域の中心にした.
 小机城は,鶴見川南側の丘陵上にあり,現在は市民の森となっている.かつて2の北西直下には鶴見川が蛇行していた.郭1〜3を囲むの幅は狭い箇所でも 18m あり,膨大な土木工事量を見せている.

小机城の縄張り図 - 西村和夫 2010 (不正確な部分あり)

 丘陵先端の郭1が防御上の主郭であろう.郭2には政庁があったのかもしれない.どちらの郭も,かつては全周に土塁が廻っていたようである.郭3上の2箇所の土塁の残欠は,最高所である郭3が郭2よりも上位であったことを示す.gとその南部の地形を見れば分かるように,郭3はもともと小高い部分であり,それを郭1に付随させたものと思われる.郭3の南北両端は虎口cからの土橋に対して相横矢をかけている.
 郭2の西側には1条の堀切があったらしいが,郭2は出丸方面からの尾根伝いの攻撃に対する前線となる曲輪なので,主郭とは考えにくい.
 郭1の櫓台dは曲輪面からの高さが 3m あって巨大である.その南側eにも同様の櫓台があったであろうが,後世に崩されて郭3との間の土橋の南側が埋め立てられたようである(当時,郭2を主郭にするための改修で崩したのなら,その排出土で土橋を拡幅するはずがない).eの北側には,櫓台基部の残欠を示す段差がある.また,eとdとの間に郭1の虎口があったと考えられる.fは補助的な虎口であろう.通路幅が狭く,勾配も急である.eの櫓台を考慮すると,郭1の曲輪面は北端を除いてほぼ長方形であり,郭2のほうが矩形であるという従来の論は再考すべきであろう.
 郭2と郭3をつなぐ土橋は,当時からあったものらしい.断面図uvを見て分かるとおり,土橋両側の堀の深さが 2m 近くも異なっているからである.また,虎口cの南北の土塁は,北側が崩れてはいるものの,もともと一直線状であったとは考えられない.つまり,cは破壊口ではない.郭2からk付近に木橋がかかっていた可能性がある.
 郭2の虎口aの外にある角馬出bを囲む堀は,西股総生氏((3) 掲載論考)によると東に突き抜けていた痕跡(凹み)があったらしい. 堀の北端(bの西側)は幅がやや狭くなっているので,木橋がかかっていた可能性がある.この位置は郭2の櫓台から横矢がかかるので合理的である. hにもgからの土塁と堀が続いていたと思われる.櫓台iの南部東側の破壊は著しい.ここに,郭1に至る経路jがあったかもしれない.
 小机城は横浜市域にあって遺構を良好に残す貴重な城郭で,歴史的にも重要であるが,現状では史跡指定が行われていないので,公園利用等による破壊が進みつつある.早急な保存措置が必要だろう.

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