慶應義塾大学工学部 1974 年卒(32 期)同期会 |
記念式典の報告 |
記念式典の内容 記念パーティ 32期の部屋 新34棟見学会 |
要パスワード:
当日の写真 参加者のひと言 |
2014年6月14日,この日を祝福するがごとく見事に晴れ渡った空の下で,理工学部創立 75 年記念式典が盛大に行われました.
理工学部創立 75 年記念式典 | |
時間 | 11:00〜12:00 |
場所 | 日吉キャンパス協生館藤原洋記念ホール |
記念式典 ライブ中継 | |
場所 | 矢上 創想館 B2 階 マルチメディアルーム |
矢上 創想館 B2 階 マルチメディアルーム での中継
(報告者: 管理工学科卒 藤野 明夫)
当時,大学における工業教育が極めて貧弱であり,その内容も実務に即したものでなく,また,外国語教育,なかんずく英語教育が頗る不十分であることに心を痛めていた藤原銀次郎氏が,私財を投じて,小泉信三塾長を学長に迎え,自らを理事長として,1939 年 6 月に,ここ,日吉の地に藤原工業大学を開校した.開校当初は,機械工学科,電気工学科,応用化学科の 3 学科が設置され,開校時に入学を許可された者は,198 名であった.そして,開校から 5 年後の 1944 年に,当初の計画に沿って藤原工業大学のすべてが慶應義塾大学に寄贈され,ここに慶應義塾大学工学部が開設されるに至った.戦災により日吉の校舎は甚大な被害を被り,目黒,溝ノ口,登戸等を点々とした.1949 年より開始された小金井での教育研究活動の発展を経て,1972 年,矢上キャンパスに本拠を構え,今日に至っている.
今年,理工学部は創立 75 年を迎えることになった.今や,理工学部は,11 学科,学部生 4,000 名,大学院生を合わせると学生数は合計 5,700 名になる.
創立 75 年を記念して,世界に通じる人材の育成のための国際人材育成基金の設立,グローバルリーダーとしての研究者の育成のための慶應義塾基礎科学基盤工学インスティテュートの開設,そして,革新的な産学官連携による共同研究拠点として慶應義塾イノベーションファウンダリーを開設した.また,これらの事業計画の推進のための記念事業募金を進めてきた.本記念事業へのご支援,ご協力を賜った皆様に厚くお礼申し上げる.
私ども,慶應義塾大学理工学部関係者は,慶應義塾の一員として我が国の理工系教育研究の進展に一層の貢献を果たすべく尽力することを,ここに誓う次第である.
皆様方のお陰をもって,創立 75 年記念事業も順調に推移している.2012 年 3 月に竣工したテクノロジーセンター棟,本年 1 月に竣工した 34 棟を活動拠点として,理工学部は世界トップレベルの理工学教育研究拠点の形成を目指している.これらを実現するための募金活動に,多くのお申込みをいただいていることにお礼を申し上げる.
初代工学部長であった谷村豊太郎博士が,「すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる」とおっしゃったといわれている.慶應義塾大学の理工学部では,その時々の社会ですぐに役に立つ知識や技能のみを追い求めるのではなく,技術やビジネスの環境構造がどのように変わっても,色褪せることなく役に立つような応用力のある基礎を大切にしてきた.また,幅広い視野をもつことを重視するということを当初からの教育方針の一つに掲げてきた.
大学が学生に対してなすべき最も大切なことは,その長い人生を豊かにするような力をしっかりと身につけさせることである.このため,慶應義塾大学理工学部は,藤原工業大学以来一貫して,深い専門教育に力を入れると同時に,文理融合の幅広い学問教養を身につけて貰うということを重視してきた. 創立 75 年の節目を迎えるにあたって,開校の志にあらためて思いを馳せ,塾生の将来にとって何が最もよいことかを常に考える理工学部であり続けてほしい.
理工学部のさらなる発展のために,ここにお集まりの皆様のご指導,ご支援を引き続き賜りたい.
これらは,藤原銀次郎,小泉塾長,谷村工学部長の間の議論のなかで決定された.戦争一色の当時の世相を考えるとその志の高さに感銘する.また,その内容は,現代にも通用するものばかりで,その先見性には驚かされる.
日本の戦後復興で重要なものは科学技術者であると言われ,藤原銀次郎は奨学金を作ろうとした.しかし,1960 年に藤原銀次郎が逝去し,私にその事業が託されたが,当時,一介のサラリーマンであった私にとっては如何ともしがたかった.しかし,1997 年,当時の鳥居塾長,安西理工学部長の絶大な協力をえて,藤原銀次郎没後 37 年,藤原奨学金が設立された.
藤原奨学金の中に,「藤原賞」があるが,これは前述の設立時の教育方針に従い,単なる学力優等者に与えられるものではなく,幅広い人間性と国際協力に貢献した学生に与えられるものである.
「慶應義塾大学理工学部75年史」(p. 10)によれば,藤原銀次郎氏は「すぐ役立つ工学教育」を考えていたが,(初代工学部長)谷村豊太郎博士は,「すぐ役に立つ教育」は「すぐに役に立たなくなる教育」であると危惧し,藤原銀次郎氏と数回にわたって懇談し,その結果,「基礎的知識を十分に身に付けさせておけば,いかなる分野の仕事を受け持っても狙い所が早く呑み込めて,比較的容易に対処できる」という意味から,「基礎に重点を置いた工学教育」に落ち着いたという経緯があるそうである.
すべてが戦争に動員されていた当時の世相を考えると驚異である.谷村先生の技術者としての確固たる信念に基づくものだと思う.
安西先生が理工学部長に就任されたときに,大学院修士課程のカリキュラムを基礎に重点を置いた内容に改編したということを理工学部報で読んだ記憶がある.技術革新が激しければ激しいほど,最新技術はあっという間に陳腐化する.現在の IT 業界はまさにそのような状況にある.このような時代にこそ,ものごとの本質を掴む力を養うために,確固とした基礎学力が必要になると思う.
ちなみに,学部長就任挨拶で上記の経緯を披露したところ,学生は深い感銘を受けたそうである.
リベラリストであった小泉塾長,清廉高潔な経済人であった藤原銀次郎氏,海軍出身ながら戦争の行く末を冷徹に見据え,技術者としての高い理想をもたれていた谷村博士,この 3 人の方々の理想的な組み合わせが,藤原家ご当主が語られる藤原工業大学の三つの教育方針,(1) 基礎に重点を置いた工学教育,(2) 人間性の確立を目指す教養教育,(3) 国際交流などに役立つ語学教育,という当時の世相とは対極的な,極めて理想主義的,かつ現代にもそのまま通じる,すばらしい教育方針の策定に至らしめたのだと思う.
ここまで書いてきて,ふと思い出したのが福澤先生の上野戦争(1868年7月4日,慶應四年五月十五日)のときの有名な逸話である.上野の山に籠る彰義隊を討伐するために官軍が撃つ砲声が轟くなか,幕臣の子弟が多い塾生が浮き足立つのを尻目に,福澤先生は,悠然とウェーランドの経済書の講義を続けていたという話である.教育方針検討の際に,小泉塾長と塾員である藤原銀次郎氏,おそらくは谷村先生も,この福澤先生の逸話が頭をよぎったであろう.戦争一色に染まる世間や軍部の圧力に超然として,むしろ世相に逆らう自由主義的,教養主義的かつ平和主義的な教育方針を掲げ得たことに,福澤先生の志を引き継いだという密かな満足感があったのではないか.
このような,ゆかしい先人方の築かれた伝統の下に学ぶことができた我々は,つくづく幸せであったと思う.
在校生 2 人のメッセージは,この先グローバルリーダーとして成長し,世界の架け橋とならんというもので,聴衆の心を打ちました.
この式典の様子が矢上キャンパスに中継され,「共に祝おう!」と先輩・同期・後輩 300 名が集まりました. 式典同時中継の後は,同窓会主催の記念パーティが厚生棟であり,大いに飲み,食べ,語って,出会いがあり,同窓の輪が広がりました.
塾歌斉唱
【報告者の補足と所感】 藤原工業大学工学部長,慶應義塾大学初代工学部長 谷村豊太郎博士について
「慶應義塾大学理工学部75年史」(p. 10)によれば,谷村豊太郎博士(清家塾長祝辞で言及)は,東京帝国大学を卒業後,海軍の技術将校になり,最後は海軍造兵中将まで務められた方だそうである.あの当時世界最大の艦載砲,戦艦「大和」,「武蔵」の 46 センチ砲の設計に携わっている.我々の世代の男の子は,子どものころプラモデルで一度は作ったことのある,あの戦艦「大和」,「武蔵」の主砲の設計者であった.
その方が何と非戦論者であったそうである.工学部長在職中の大半が日中戦争,太平洋戦争の戦時下であったが,つとに敗戦を予見し,軍の要請にもかかわらず航空学科や造船学科の設立を拒否した.
工学は自然力を人間に有用な姿に変える意図をもつ学問であり,人生観・国家観次第で技術学は危険でさえあり得るとして,「技術者は不断に人格向上を計らねばならない」と機会あるごとに訴えていたそうである.
二つの言葉,「すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる」と「技術者は不断に人格向上を計らねばならない」は,たいへん深い言葉であると思う.ともすれば,技術革新に心を奪われ,技術のもつ危険性を顧みることの少ない我々,工学部出身者にとって銘記すべきことである.また,このような方を開校時の学部長にもったことは,われわれにとってたいへん幸せなことであり,誇りとすべきことだと思う.
また,このような発言が海軍造兵中将から発せられたことが驚きである.以下は,報告者の全くの推測である.
大和の 46 センチ砲は,その設計当時からその有効性が疑問視されていたのではないか.しかし,立場上,その設計を遂行せざるを得ず,戦争に勝利する,あるいは,回避することに役立つどころか,むしろ,その存在が開戦を決断させることに効いてしまったことに,谷村先生としては,痛恨の念があったのではないか.それが,上記の二つの言葉になったのではないか.
次の来賓の藤原家当主の言葉にあるように,日中戦争のさなか,第二次大戦勃発の直前という緊迫し,また,日本の世論が戦争一色に塗りつぶされていた時代に,例外的に理想主義的な,平和な,グローバルな,一言でいえば戦争の匂いを一切感じさせない建学の方針が策定された.おそらくは,谷村先生の上記の技術者の理想像への深い思い,さらには,理性的な判断力を失い戦争に向かって流されていく世相に対する反発と,心ならずも結果的に戦争への流れに加担することになってしまったご自身に対する悔恨の念があったのではあるまいか.