全国に 3 万以上あるといわれる中世城郭,それらの城は築城主体・築城年代・築城目的などに関する史料や伝承がなく,来歴不明なものが大多数を占めます.しかし,対象となる城を地図上に落としてみると,築城目的がわかってくる場合があります.それらの城の近辺には,その地域と他の地域を結ぶ交通路が存在していることが往々にして見受けられるのです.
それらの交通路は,現在道路として使用されているもの以外にも,峠越えや稜線沿いの山道である場合もあります.地図をみていると,人々が暮らす平地部からかなり離れた山奥に,山城がぽつんと孤立して存在することが,よく見かけられます.なぜこんな場所に城が築かれたのか,その築城目的に疑問を抱くことがしばしばですが,こうした疑問も,近くを通る交通路との関連に注目していくと,解けていく場合があります.
城郭と交通路は実際,どのような関係だったのでしょうか.平時においては,交通路の警備や通行料を徴収する関所としての目的で築かれた城郭もあるでしょうが,大多数の城は戦時において,交通路の封鎖,監視,確保,あるいは物資の補給,駐屯などの軍事目的で築かれたものと思われます.
例えば上杉輝虎(のちの謙信)がいわゆる越山の際に赤城山の東側山麓のルート,通称「根利通」を利用するようになったのは,赤城山西側が自らの勢力圏でなくなったからですが,その後はこの道筋確保に重要な五覧田城がしばしば北条氏との合戦の舞台となりました.
これらの交通路と関連した城郭は,熾烈な戦争が繰り広げられた戦国末期において実際にはどのように活用されていったのでしょうか.
わかりやすい例としては,交通路を直接城内に通した城と,交通路の確保とその監視や制圧が可能な高所に築かれた城があります.前者の例としては,山中城(静岡県・東海道),足柄城(神奈川県・足柄路),御坂城(山梨県・御坂峠),木ノ芽峠城(福井県・ 北陸道)が有名です.後者の例としては,愛宕山城(群馬県・中山道),荒戸城(新潟県・三国街道),高遠城・的場城(長野県・杖突街道)などが確認できます.
これら城郭と交通路の関係について取り組んだ論考はあるのでしょうか.
主に交通路の考察の面から取り組んだものとして,齋藤慎一氏の論考が挙げられます(註1).文献,考古学の発掘成果を丁寧に読み解き,道筋の復元だけでなくその年代観を重視することを提言し,鎌倉街道上道の変遷を推論しています.上道は 15 世紀後半を画期にして,平行する2本の街道へ変化したことを提示し,旧来の上道沿いにある杉山城,菅谷城などの存続年代に言及しています.この,時代の変遷によって主要街道が廃れ,別の道筋に主要街道が移った場合に街道筋の城はどうなったのかの観点も重要と思われます.
主に大軍を動かして遠征する場合などには,街道筋にある城はどう活用されたのかという面に触れたのが 2024 年の全国城郭研究者セミナーでの高橋充氏の報告「九戸城攻め」でした(註2). 戦国末期ですが,豊臣軍の九戸城攻めの際に,3手に分かれた軍勢は,それぞれルート上の城郭に豊臣軍の軍勢を入れながら進むように指示されており,それぞれの城は兵粮米補給の基地としての役割ももっていたとのことです.同様のことが,戦国期の様々な戦争の中で行われた可能性はあるのではないでしょうか.
それでは,交通路とのかかわりの中で,それぞれの城に具体的にどのような工夫がされたのか,縄張の観点からみていくことは可能なのでしょうか.
2015 年に国指定遺跡に認定された「加越国境城跡群及び道」の城跡群は,小原越や二俣越などの北陸街道のバイパスルートに前田側,佐々側双方が対峙する形で城を築き,交通路に対しての攻撃や遮断をするうえでの縄張上の工夫がされていたようです(註3).
髙田徹氏の論考では,「城郭外縁部の虎口と道に関する試論」という副題で,城郭外縁に設けられた虎口から外部にどのように出撃したのかを具体的な城を例に探っています(註4).虎口がこれまで防御の面を中心に語られてきたなかで,新しい視点といえるでしょう.また,城郭と周辺主要道の近接性のみで道を抑えるというのではなく,外縁部の虎口,あるいはその候補地を通じて道との繋がりを語るべきではと提言されています.首肯できる意見と思います.
三島正之氏の最近の論考「武田氏領域における交通路掌握の状況」(註5)では,武田氏の支配領域における交通路封鎖の実態として,高遠,西洗馬,白馬,明知の 4 地区を取り上げ,交通路やそれと推定される稜線などに近接した城郭群の縄張を丹念に作成し分析しています.それらは放射状竪堀を設けた城が多いことから武田氏が関与した可能性を指摘し,また谷の両側に城を配置する特質を明らかにしています.また類似した縄張の城が山の中に複数存在する場合には,失われた可能性のある稜線上の道の推定が行えるのではないかとの提言もしています.
今回のシンポジウムでは,特に戦争時に,交通路に近接して築かれた城郭群がそれぞれにどのような目的で選地され,築かれたのかということを探ります.
おそらく交通路の封鎖,監視,確保,あるいは物資の補給,駐屯などの軍事目的で築かれたと思われる各城郭で,なぜその場所に築かれたのか,また縄張面でどのような工夫がされたのか,それらがどのように機能していたかを解き明かし,幅広く文献史学,考古学の成果も含め,議論をできればと思います.
論点は尽きないと思いますが,これまでこのセミナーで城郭と交通路の関係を正面から取り上げたことはなく,今回はまず出発点の議論をシンポジウムで行いたく思います.
註
履歴: | 2024-11-01 | Web ページの公開 |
2024-11-01 | 一般報告の公募 | |
2024-12-29 | 一般報告の公募の締め切り | |
2025-02-07 | テーマの掲載 |